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イスラム教は自由と束縛の絶妙なバランスを生み出している

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イスラム教は自由と束縛の絶妙なバランスを生み出している。

 

エジプト人の9割はムスリムだ。断食などイスラム教徒にとって生活上の縛りは多い。まず酒は飲めない(しかしクルアーンには死んだら天国で酒が飲めると書いてあるようでそのあたりがなんだか良くわからない)。そして婚約前の女性と外を二人で歩くこともできない。だからエジプトで生活する残り1割のコプト教徒もイスラム教徒に合わせて空気を読まざるを得ず、レストランで酒を飲めるところもほとんどないし、デートなんかも堂々とできない雰囲気が作られている。

 

しかし生まれてから縛りがあるというのは悪いことばかりではないだろう。盲目的に従えるというのはもしかすると幸せなことなのかもしれない。生まれたらイスラム教徒。そしてそれは一生変えられない。物心ついたら毎日五回メッカの方角に向かい頭を下げて祈る。祈らない人間がいれば「なぜお前は祈らない」などと言うだろうし、酒を飲む人間には「なぜお前は酒なんか飲む」などと言う。生まれてから絶対的な縛りがある。目に見えない神と毎日対話し、クルアーンというルールブックに沿って生きる。生まれてから当たり前にしてきたことで疑う余地などない。自分の行動や考え方のベースがぶれずにそこにはある。IT化が進み世の中の情報が筒抜けになっても、彼らムスリムは祈りを続けているし、その教えはまだ崩壊していない。

 

作家の佐藤優が512日間拘留された時のことを綴った獄中期で、縛られた空間でこその喜びや幸せを見出している描写があり、とても印象的だった。勾留されあらゆることが制限された空間で、日々差し入れされる菓子パンに幸せを感じ、持ち込みが許された3冊の本を繰り返し読むことで学ぶことの楽しさを再確認した。人は本当の意味で自らを縛ることはできないので自ら同じ体験をしようと思っても出来るものではない。自由と拘束は相反する概念であるとともに表裏一体のものだ。そしてそのバランスを自ら取ることは難しい。束縛された中でこそ自由をひしひしと感じることができるし、自由の中でこそ束縛される必要性を実感することができる。自由を与えられた日本人よりも縛りの多いイスラム教徒の方がもしかしたら自由を謳歌している、なんてことがあるのかもしれない。ラマダン中の日没後は解放感からかお祭りのようになるが、そんな束縛と自由の絶妙なバランスを人々に与えるアラーは、さすがは人間のことをよくわかっていらっしゃるのだろう。

 

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