時間がくねくねしてなくてよかった

答えは人それぞれですが、何かを考えるきっかけになるようなブログを目指してます

コンゴ共和国で爆発事故に遭遇

 

これは私が2012年3月にコンゴ共和国を旅して爆発事故に遭遇した時の記録である。

 

 

1.コンゴ共和国入国

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ルワンダを出発した私は飛行機でコンゴ共和国へと向かっていた。アフリカ大陸横断を極力飛行機を使わず実行しようと考えていたが、危険地帯であるコンゴ民主共和国は空路を利用せざるを得なかった。どうしてもコンゴ共和国には入国する必要があった。コンゴ共和国から中央アフリカ共和国カメルーンを経て、やはり危険地帯であるナイジェリアを空路で通過し、ベナンに入るルートで考えていた。ここで入国拒否されれば旅のルートが絶たれてしまう。ビザは空港で取得できるという情報を得ていたが、不安だった。飛行機の中で、空港でのあらゆる状況をシミュレーションすることに没頭した。

 

そのため、ルワンダからコンゴ共和国へのフライトはあっという間だった。到着したのは朝の9時。飛行機を降りた途端、湿度を多く含んだ不快な空気が私を包んだ。独特の臭いもあった。気温のためか疲労のためか、建物がどこかぐにゃりと歪んでいるようにも見えた。まるで初めて外国の地に足を踏み入れたときのような感覚があった。中央アフリカ大陸はいままで訪れた国々と持っている緊張感が違っていた。未知のものに対する不安と混乱、そしてはっきりとした恐れがあった。

 

コンゴ共和国の到着ビザが取れるという情報は、いやというほど確認していた。そして可能な限りできる準備はしておいた。まずコンゴ共和国の外務省の窓口にメールで問い合わせて、到着ビザが取得可能であるかの確認をした。さらにコンゴ民主共和国にある日本大使館コンゴ共和国には日本大使館は存在しないので、コンゴ民主共和国日本大使館が兼轄している)にもメールで問い合わせて確認を取った。そしてその日本大使館の職員の方に「到着ビザは取得可能、コンゴ共和国外務省に確認済み」という内容の文章をフランス語で書いて頂き、メールで送信してもらっていた。

 

また、コンゴ共和国の首都であるブラザビルのホテルにも宿泊予約確認書を発行してもらい、メールで送ってもらっていた。インターネットで見つけることのできたブラザビルのホテルは4件で、その全てのホテルにメール連絡をしてその旨をお願いしたのだが、取り合ってくれたのはたった1件のホテルだけだった。きちんとしたホテルの予約確認書があるというのは、入国の際に非常に有効となる。とにかく入国審査官に文句をつけられないように、用意できるものは全て揃えておいた。書類について聞かれるまで出さない、というシミュレーションもしていた。初めから全て出してしまっては、他のことに関して難癖を付けられる恐れがあった。聞かれたものを一つずつ出していき、出せるものがなくなれば金でもくれてやるつもりで、アメリカドルも余分にポケットに忍び込ませておいた。

 

ついに出入国カウンターが見えてきた。私はまず他の乗客を全員先に行かせることにした。そのために5分ほどトイレに篭り時間を潰した。というのも、怪しい日本人が現れ、面倒な書類の確認や質問をしなければならない状況で、その後ろにまだ沢山の人が並んでいれば、「面倒くさいな」などといった理由で、簡単に「ノー」と言われる可能性があったからだ。

 

 

 

2.マヤマヤ国際空港

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コンゴ共和国の空港にビザ申請用の窓口は見当たらなかった。毅然とした態度で臨むために私は様子を伺っていた。「ビザ申請用の窓口があったのですね」などと間抜けな台詞を吐いてしまっては、足元を見られる可能性があったのだ。しかしやはり窓口は見当たらなかった。到着ビザを取得する人間は少ないのだろう。

 

これ以上キョロキョロしても怪しい人間になってしまう。するとトイレの近くで掃除をしている若い男を見つけた。この男に聞いてみると、アライバルビザの窓口などやはり存在しないのだと教えてくれた。そして「直接あそこに行きな!」などとこの若い男はカウンターを指差しながら大きな声で言ったのだった。大きなお世話だった。

 

おそらく入国審査官にも聞こえたはずだ。なにかコソコソと掃除の男に話しかけている、怪しい東洋人だなどと思われてしまったに違いない。怪しまれないつもりが私は確実に怪しい人物に近づきつつあった。これ以上墓穴を掘ってはいけないと覚悟を決め、入国審査官の待つ出入国カウンターへ向かうことにした。もし事の一部始終を見ていた人間がいたならば、さぞ間抜けな奴に見えたことだろう。しかしそんな「茶番劇」も少なからず無駄ではなかったようで、すでに他の乗客は手続きを終え、誰も並んではいなかった。

 

入国審査官は2人いた。一人は今朝嫌なことがあったかのような面をした細身の男で、もう一人は無表情な小太りの男だった。迷わず後者の男を選択した。こういうときどんな表情で入国審査官と対峙したらいいのだろうか。「ビザ取れて当たり前なんですよね」と顔で伝えられれば上出来だろう。

 

「ビザは?」

 

「持ってません。到着ビザを取りたいのですが」

 

「ホテルの予約確認書をみせろ」

 

「これです」

 

「50USドルだ」

 

「はい」 

 

コンゴ共和国へようこそ」

 

こちらが拍子抜けしてしまうくらいあっさりビザを取得することが出来たのだった。

 

コンゴ共和国の首都ブラザビルのマヤマヤ国際空港はどこか無機質で不気味だった。私のような旅行者は他にいないものかと辺りに目を配ってみるも、誰もいなかった。椅子に腰を下ろし、しばらく様子をみることにした。国際空港といっても狭く、小さなカフェと売店が確認できるくらいで、あとは何もなかった。

 

何人かのコンゴ人がしきりにフランス語で話しかけてきた。分からないという仕草をしてもなかなかやめてくれなかった。なぜ彼らはフランス語を理解しない私にフランス語を延々と使い続けるのだろう。そんな彼らが私をさらに不安にさせた。もしかすると平気で人の一生を台無しにしてしまうような人間ばかりなのではないだろうか、などと、不安とは行過ぎた考えを人に抱かせるようで、そんなことばかりこのときは考えていた。空港の外に出て行くのが怖かった。

 

ATMや両替所などを探してみたが、どうやら空港内にはなさそうだった。どこかで両替できないものかと、比較的害のなさそうな男を選び聞いてみた。米ドルを見せ「エクスチェンジ」とだけいうと、こっちだといわんばかりに歩き出した。英語は通じていなかったようだが、おそらく両替がしたいということは理解してくれたのだろう。

 

そして空港を出た。やはり空港内には両替所はないようだった。

 

「空港内にはないんですか?」

 

聞いてみるもやはり英語は通じなかった。空港を指差し「ここじゃないんですか?」というしぐさをしても、「こっちだ」というように私を手招いた。余計な会話はしてこなかった。今までの経験から言うと信用できる類の男だった。旅行者を騙そうとする人間は英語が達者でおしゃべりな人間が多かったからだ。

 

しばらく歩きさらに空港から離れていった。

 

「あれだ」

 

その男は小さく汚い小屋を指差した。そして私の意識は「引き返せ」と小さく私に囁いた。「コンゴ共和国の空港にある両替所は外にある汚い小屋である」といった旅人が喜びそうなマニアックな情報なんかいらなかった。

 

「すみません、やっぱり空港に戻ります」

 

やはり英語は通じなかった。引き返す私をみて、いいから来い、というしぐさをしたが、その男はしつこく呼ぶことなく去っていった。おそらくあれは両替所だろう。そしてきっとあの男は親切な人間だろう。しかし私はそこには行かないのだ。

 

私はきっと凡庸な観察眼しか持ち合わせていない。ましてや新しい土地、異なった人種を前にしては盲目も同然だ。好奇心はいつも猫のように無責任にやってきては、やはり無責任に去ってゆき人を翻弄する。そしてそこに危険が潜んでいるのも自分では分かっている。アフリカではそんな危険と好奇心のバランスの葛藤が常に行われていた。危険を恐れて全てを拒否するなら、初めからアフリカになど来なかっただろう。しかしあるラインを越えてしまえば、自分の身を危険にさらすことになる。そのラインの引き方が難しかった。決して定規を使ってただまっすぐに引けるようなものではなかった。

 

空港に戻り売店にいた男に話を聞いてみることにした。英語も多少通じ、私に全く関心がないようだったので信用できそうな気がした。ここから町の中心部までのタクシーの運賃を聞いてみた。すると、1500セーファーフラン(約250円)という答えが返ってきた。そして10米ドル札だけ両替することにした。レートはあまりよくなかったが仕方がなかった。

 

空港の外に出ると、目の前のロータリーにタクシーが何台か止まっていた。そして少し離れたところにもやはり数台ほど止まっていた。

 

タクシードライバーというのは旅人とはきっても切り離せない「旅の連れ合い」だ。そしてタクシードライバーは空港という玄関を出てその国の第一印象となる存在でもある。それにもかかわらずアフリカで出会った彼らは国の顔になっている意識など当然なく、欲望丸出しで近づいてきては、ぼったくって金を儲けてやろうと汗を流す。このときもやはりロータリーにいた数人のタクシードライバーが近づいてきては、「俺の車に乗れ!」というセリフを散弾銃のようにぶっ放してきた。私は主張の強い物や人は警戒してしまう。自然と避ける習性がある。そのため、彼らが主張を強めれば強めるほど、私には「俺の車には乗るな!」と聞こえてしまうのだった。無視して奥のタクシーが並んでいる方へと向かった。

 

ダウンタウンまではいくらですか?」

 

「2000セーファー(約330円)だ」

 

売店の男がいう相場は1500セーファーフラン(約250円)だった。

 

「それなら他を当たります」

 

値切るために嘘を言った。するとドライバーの表情が変わった。怒っていた。そして他の男が近づいてきて、その男を援護し始めた。

 

「こいつの言っている事は正しい」

 

アフリカではよく見る光景だった。

 

 

3.宿探しと旅の情報収集

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空港から町の中心部まではそれほど離れていないようだった。私はコンゴ共和国の空気に飲まれ及び腰になっていたようで、結局ドライバーの言い値でタクシーに乗車していた。

 

ブラザビルの町並みはガランとしていて活気がなかった。それはまるで核戦争が起きた後のように人の気配がなかった。なんだか気味が悪かった。これほど生気が感じられない首都というものがこの世に存在するとは思わなかった。無機質で無色透明といった感じだった。泣いても笑っても怒ってもいない。人から避けられている町というか、そのような寂しさが漂っていた。雲は暗澹と広がり、その奥で太陽は力を失っているようで、風もどこか元気がなかった。この町には永遠に活気などやってこない、そんな気さえした。過去の繁栄の面影も感じられず、初めから衰退しているような寂寥感。能面を付けた絶望のような町だった。そんな時が止まったかのような町をタクシーから眺めていると、自分は果たして存在しているのかとさえ思った。

 

泊まるところを探さなくてはならなかった。予約確認書を発行してくれたホテルは宿泊日数を1日だと伝えておいたにも関わらず、その書類には「7泊840米ドル」などと面妖なことが書かれていたのでキャンセルしていた。ガイドブックに記載されていたミッション系の宿泊施設に泊まろうと考えていた。ミッションとは日本語にすると(キリスト教の)布教団といった意味だ。キリスト教に関係の深い組織や人物が、布教活動をするための宿泊施設だ。世界中いたるところに存在する。アフリカではお世話になることが多かった。ブラザビルは他のアフリカの都市に比べて物価が高い。そのブラザビルの中でも比較的安かったというのも、ミッション系の宿を選んだ理由の1つだった。しかしやはり一番の理由は治安の面だった。コンゴ共和国の人口の半分はカトリックだといわれている。

 

大通りから外れ、狭い坂をタクシーは苦しそうに登っていった。辺りは豪邸が立ち並び、家々それぞれが頑丈な門を構え有刺鉄線まで張られていた。住宅が密集する路地に来ても人の姿をあまり見かけることはなかった。その坂の中腹に探していた宿を見つけた。大きな木々が茂る中にひっそりとその建物は存在していて、中は涼しそうだった。

 

タクシーのドライバーにいくらかチップを渡し別れ、建物の中に入った。すると私に気がついたのか、小柄な男が入り口の脇にあった小屋から出てきた。外国人の対応に慣れているのだろうか、その男は英語を流暢に喋った。彼は愛想がいいわけでもなく、おしゃべりなわけでもなかったが、この国に来て初めてまともに人と会話ができたので、少し気持ちが落ち着いた。ところがその宿は満室で、泊まることは出来ないとのことだった。こんな町で宿が満室などとは全く予想もしていなかった。どうしたものかと途方に暮れていたら、男はこの宿の近くにも他に宿泊できるところがあると教えてくれた。なんでも近くにカトリックの聖堂があり、その敷地内にもやはりミッション系の宿泊施設があるのだという。その男に礼をいい、私は歩き出した。

 

坂道を登っていくとその聖堂は視界に現れてきた。白と茶色の二色でデザインされたその聖堂は、入り口上部に「Dieu est amour」とフランス語で「神は愛である」と書かれていた。その聖堂の脇を抜けさらに奥に入っていくと、そこは大きな広場になっていた。建物もいくつかあり、人も住んでいるようだった。

 

宿泊施設らしい建物が見えてきたので近づいてみると、木々で覆われたその建物の脇にはテーブルと椅子が並べてられていて、その椅子に腰掛けた身なりの良い青年達がビールを飲んでいた。年齢は20代後半といったところだったが、聞くと大学生だという。フランスの植民地だったアフリカの国のキリスト教徒は、よく酒を飲む印象があった。昼間から飲んでいる人間も多かった。時刻はまだ昼を過ぎたばかりだったが、彼らは講義の合間にどうやら一杯やっているところらしかった。その中にいた英語を喋る男がいろいろと教えてくれた。眼鏡を掛けていたので幾分真面目そうに見えた。

 

「ニンジャってまだいるんですか?」

 

「それは昔の話だよ、今はもういないから大丈夫さ」

 

ニンジャがいるのかと聞いたのは私のほうだ。ニンジャとはコンゴ共和国に存在していた反政府武装集団の名称だ。90年代から続いていた内戦にも参加していた。彼らは2008年に武装解除され、解散したということになっていたが、それでもニンジャの残党が存在しているという話もあった。ニンジャは列車を乗っ取り略奪を繰り返していた。当然旅行者もそのターゲットにされていたので、少し気になっていたのだ。

 

「ニンジャって日本からきた言葉だろう?」

 

そういってその大学生は笑っていた。そもそもなぜニンジャという名称を選んだのだろうか。忍者に特に思い入れはないが、日光江戸村の忍者には迷惑な話だ。

 

次の目的地は中央アフリカ共和国だったが、その国の情報を私は必要としていた。コンゴ共和国に着いたのはいいが、きちんと次の国へ抜けられるのか、この時点では定かではなかったのだ。というのも、事前に情報を取得しようとしたが、コンゴ共和国から中央アフリカ共和国へ抜けた旅行者の情報は、全く見つけることが出来なかったのだ。ブラザビルには中央アフリカ共和国の大使館が設けられているので、なんとかなるだろうというくらいにしか考えていなかった。

 

しかし事前にあまり情報を仕入れすぎて信じるというのも危険ではある。アフリカは流動的な部分が多く情報の「消費期限」が短いこともあるので、うっかり飲み込んでしまうと腹を下してしまうことにもなりかねないのだ。そもそも当てになる情報源もそれほど存在しない。現地調達というのが、簡単でかつ確実な方法といえるのかもしれなかった。 

 

私の持っていたガイドブックはとても役に立っていた。それは「ロンリープラネット」というオーストラリアに本社のある出版社が発行しているガイドブックだ。最新版をネット上でダウンロードして、印刷したものを持ち歩いていた。パソコンにデータを保存しておけば、例え印刷物を紛失してもいつでも情報を取り出すことができる。分厚いガイドブックを各国のもの揃えるのは大変だ。とても重くて持ち運ぶことなどできない。しかしデータで持つことにより、必要な国の分だけ印刷して、ポケットにでもねじ込んでおけばすぐに見ることができ、また荷物にもならない。そして通過した国の印刷物はすぐに捨てることができる。今はスマートフォンに情報を保存して持ち運ぶという方法が主流だが、流行にいつも遅れてしまう私はやはりそんなものは持ち合わせてなかった。スマートフォンを使いこなす旅人を見るたびに、紙の方が旅人らしいじゃないかといつも負け惜しみを口にした。ロンリープラネットは毎年アフリカのマニアックな国の情報まで更新している。コンゴ共和国の情報はページ数にして十数ページと少ない情報量だったが、本当に役に立っていた。

 

中央アフリカ共和国までの行き方だが、ガイドブックには大きく2つの交通手段が記載されていた。川を使い船で行く方法と、陸を車で行く方法だ。しかしどちらも常に利用できるわけではなく、それは季節によって変化させられるようだった。というのも、雨季であれば川の水量が十分なのでブラザビルからコンゴ川、ウバンギ川(コンゴ川支流の河川)と船で乗り継ぎ、一週間から10日かけて、中央アフリカの首都バンギまでいくことができるらしいのだが、乾季ならば川の水量が十分でないため、船の利用は不可能になるらしいのだ。その際は、陸路でカメルーンまで抜けて、カメルーンからさらに陸離でバンギまで行く、というルートになるらしかった。そしてその場合、やはり雨季ならば陸路でカメルーンに抜けるのは難しくなるようだった。おそらくは道路が舗装されていない場所は、雨量が多いと通行不可能になるということなのだろう。

 

季節で取れるルートが変わる。ルートは2つだが、ほとんど常に1ルートしか選択できず、もしかすると2つのルートが駄目になるタイミングも存在するかもしれなかった。在米コンゴ共和国大使館のホームページを見てみると、コンゴ共和国は1月から2月が短い乾季、3月から5月が短い雨季、6月から9月が長い乾季、10月から12月が長い雨季と書いてあった。日本の四季とは大きく異なるものだが、一応四季と呼べるのだろう。この日は3月3日。季節の変わり目で微妙な時期だった。その辺りの季節に関する最新情報を、現地の人に確認しなければならなかったのだ。こういった情報はガイドブックはもちろん、インターネットをいくら眺めていても無駄だ。

 

「今は川が満ちてないから、船で中央アフリカ共和国へ行くのは無理だ」

 

その大学生は自信を持ってそう言った。信頼できそうな男だったし、言い切ったので間違いなさそうだった。他の人間にも確認する必要はあったが、この男の言うことが本当ならば、ブラザビルからコンゴ共和国の北部に位置するウェッソの町まで行き、そこから陸路でカメルーンに入国することになりそうだった。

 

ビール瓶は何本も空いていった。もう小一時間も酒を飲んでいた。彼らは大学の講義の合間だと言っていたはずだったが、一向に授業に向かう様子はなかった。

 

すると宿のオーナーがやってきた。すっかりここの宿泊者になったつもりでいたが、まだ宿泊手続きも済ませていなかったことを私は思い出した。オーナーが来なければいつまでここで酒を飲んでいたかわからなかった。

 

オーナーは無愛想で英語は全く喋らなかった。宿泊したい旨を大学生に通訳してもらい、オーナーに伝えてもらった。すると一泊10000セーファーフラン(約1670円)かかるということだった。ブラザビルはやはり物価が高い。シングルで一泊1670円ならば、日本では大いに安いと小躍りするところだろうが、アフリカの物価に慣れ始めていた私にはとても高く感じた。アフリカでは500円から800円ほど出せば、それなりの宿は確保することができるのだ。しかしブラザビルは高いのだから仕方がなかった。それでも一緒にいた大学生が値段交渉をしてくれて、8000セーファーフラン(約1330円)にまで値を下げてくれた。そしてここを寝床にすることに決めた。大学生たちに礼を言い別れると、オーナーが部屋に案内してくれた。

 

六畳ほどの部屋には大きなベッドが横たわり、木製のテーブルには椅子も備え付けられていた。そしてベッドには蚊帳も取り付けられていた。蚊帳はいつも持ち歩いていたが、取り出すのも取り付けるのも面倒であったので、部屋についているとその手間が省けて助かる。しかし、蚊帳に穴が開いていることもよくあるので、その穴を点検しなければならないというひと手間が加わり、その作業に掛かる時間を考慮すると、さほど手間は変わらないような気もしてくるのであった。マラリアに罹らないためにも、蚊には必要以上に神経質になる必要があった。蚊帳に穴が開いている場合は、蚊帳の穴が開いている部分をつまんで縛り穴を隠すのがコツだ。

 

そして南京虫の点検も新しい部屋に入ったときに行わなければならないことの一つだった。南京虫とは体長が5ミリほどの吸血性の昆虫のことだ。正式名称は「トコジラミ」といい英語では「ベッドバグ」と呼ばれている。ベッドにいるバグ(昆虫)と非常に覚えやすい名前となっている。この虫はベッドに住みつき夜になると血を吸いに現れる。そして噛まれると蚊とは比べ物にならない痒みに襲われることになる。南京虫マットレスの裏側に潜んでいることが多いので、マットレスをひっくり返し点検しなければならない。点検しても万が一夜になり存在に気が付いたら、対処の方法は一つ。それは電気を消さないということだ。南京虫は暗くなるとベッドの下から這い上がってくる習性があるので、電気を点けたままにして眠らなくてはならない。電気のろくに点かないアフリカで出会ってしまったら、万事休すというわけである。

 

シャワーとトイレは共同だった。掃除はきちんとされている様で部屋は綺麗であり、この宿ならばゆっくりと眠れそうだった。

 

そして翌日とんでもない事態に巻き込まれることになろうとは、そのとき想像できるはずもなかったのだった。

 

 

4.ブラザビルでの爆発事故

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朝起きると鳥の鳴き声が聞こえてきた。様々な種類の鳥を思わせる音色だった。それは優しく朗らかで愛嬌がある女性の歌声のようだった。また聖堂からは聖歌が聞こえてきた。そしてその二つの音色が調和して殺風景な部屋に注がれると、その旋律はどこか文学的な性質さえ帯びているようにすら感じられた。コンゴで鳥の鳴き声と聖歌で目を覚ますことになるとは。なんと優雅な朝なのだろう。それはコンゴにいることを忘れさせてくれるようであった。

 

「バン!!!」

 

ものすごい音と衝撃に突然襲われた。それはあまりにも突然だった。自分は死ぬんじゃないかと一瞬思った。完全にパニックに陥り、しばらく脳も体も機能が停止していた。目を見開き鼻で荒く呼吸をすることだけが精一杯だった。5秒くらい経っただろうか、ようやく思考というものを許された私の脳は、次のことを考えた。

 

「今の音と衝撃はなんだ」

 

花火か何かが上がったのか。いや朝から花火を上げるなどということは考えられないし、それにここはコンゴだ。そんな気の利いた催しがあるとは思えない。では雷か何かだろうか。いやそれもあの衝撃を説明することができないし、それに雨の音も聞こえない。記憶の中にはない音と衝撃。これらのことを総じて考えたのち、私はようやく起き上がった。その単純な動作ですら、取るのに多くの思考と時間を要した。身動きが取れないとはまさにこのことだった。

 

すぐに部屋を出た。すると、隣の部屋の男も同じタイミングで出てきたようだった。

 

「何なんです今の音は?」

 

彼も自分と同じ境遇にいることなどすっかり忘れて、私はそんな言葉を発した。すると少し英語を喋る男で、「ガソリンスタンドが爆発した」というようなことを言った。ガソリンスタンドが爆発か。いやまて、なぜそんなことが即答できるのだ。彼もたった今まで部屋で寝ていたはずだ。この国では頻繁にガソリンスタンドが爆発するような事故が起こるというのだろうか。それとも私が部屋で思考を巡らせていたように、彼もベッドの中で彼の思考を巡らせていて、そして導き出されたのがガソリンスタンドの爆発だったのだろうか。しかしそんなことはもうどうでもよかった。コンゴなどに来るのではなかったと後悔した。2日目でこんなことが起きる国だったとは。とんでもない国だと思った。

 

しかしなぜこの男はもっと慌てないのだろう。落ち着いているわけでもないが、その態度はあくまでも日常の範疇に収まっている。なぜもっとあたふたして取り乱さないのだ。

 

そんなことを考えていたら「バン!!!」と再び同じ音と衝撃が私を襲った。鼓膜が破けるかと思った。これは尋常な事態じゃない。本当に怖くなってきた。

 

空襲でも起きたのではないかと思った。しかし空を見上げてみても、不気味なほど静かで白雲が穏やかにたむろしているだけだった。

 

「本当にガソリンスタンドの爆発なんですか?なぜ分かるんです?」

 

聞いてみたがうまく伝わらなかった。英語はほとんど理解してくれなかった。しかしやはりこの男は私よりもずっと冷静だった。男はラジオを持ってきて聞き始めた。その男の行動は正しい判断だと思えた。正確な情報が入らない限り下手には動けない。動くべきかここにいるべきかの判断を下さなければならなかった。

 

そう考えた私は部屋に戻り貴重品を小さなリュックにまとめることにした。私ができることはこれくらいだった。荷物を部屋でまとめていると「バン!!!・・・バン!!!」と今度は2回立て続けに音と衝撃が起こった。そしてそのとき私は部屋の壁の補強に使われていた木の板がくの字に曲がったのを見た。それは本当に一瞬で、すぐに元の形に戻ったが、目の錯覚では決してなかった。

 

外が騒がしくなってきた。荷物をまとめ終えるとリュックを背負い、部屋を出た。すると聖堂わきの広場に人が溢れんばかりに押し寄せているのが確認できた。

 

そしてオーナーがなにやら私を呼んでいた。なんだと聞いてもこのオーナーはフランス語で返事をするので、何を言っているのかさっぱり分からなかった。なんでフランス語を喋るのだ。しかし向こうも同じことを思ったに違いない。なぜフランス語を喋らないのだと。ここはコンゴ共和国公用語はフランス語だった。そんな国で英語を強要する私がいけなかった。オーナーが何を言いたいのかさっぱり分からなかった。彼はひどく慌てていた。何かを伝えようと必死だった。そしてそれは私をさらに慌てさせた。辞書を使い筆談できるような冷静さはなかった。

 

間違いなかった。彼らは避難していた。建物の中にいると危ないということなのだろうか。何か情報を得たのだろうか。とにかく情報を集めなければならなかった。彼らの対応が正しいという保障はどこにもないのだ。しかし、英語を喋る人間がとにかく少ない。広場に集まっている人に片っ端から話しかけていき、英語を喋る人間を探していった。それでもなんとか片言を喋る人を見つけて、情報を得た。若い男だった。その男は「軍の施設で爆発事故が起きた」というようなことを言った。

 

「本当ですか?テロか何かではないのですね?」

 

しかし「事故じゃない」などと言う他の男も現れて、どの情報が正しいかの判断はできなかった。そもそも、この国では確かな情報なんて得られないのかもしれなかった。

 

避難しているといっても、人々からは緊張感が全く感じられなかった。これから広場で始まる催し物にでも参加するかのように見えた。確かな情報が入り安心しているのか、それとも彼らに危機感がないだけなのか。避難しながらも音と衝撃は続いた。1時間ほどそこで情報を可能な限り集めたが、やはり軍の施設の爆発事故という線が強そうだった。

 

時間が経つにつれて「爆発」の大きさと頻度は下がっていった。しかしもっと正確な情報を、きちんと意思疎通ができる人から集めなければならなかった。宿泊している場所から少し離れた繁華街に向かうことにした。地図からすると徒歩で15分もあれば到着できそうだった。音の聞こえる方角とは反対だったので、安全だという判断をした。

 

街には人影はほとんどなかった。ガランとしていた。ただでさえ無機質な街がさらに色を失っていた。そして歩き始めてすぐ目に飛び込んできた光景に、私は言葉を失った。あちこちの店の窓ガラスが割れていたのだ。割れて粉々になったガラス片が地面のあちこちに散らばっていた。慌てて辺りに目を配った。人が窓ガラスを割ったのだとその時思ったからだ。誰かが暴れているのだと。暴動が起きて食糧の奪い合いが起きているのだと。通りにある店の窓ガラスが全て割れていたのだから、他に理由などあるわけがない。そう思った。コンゴ共和国という国に対して持っていたイメージと、2日目にしてこのような事態に陥ったという疑いようのない事実が、思考を悪い方向に向けさせていた。危険だと判断し引き返そうと思った瞬間、人影が見えた。

 

店の前でガラス片を掃除している男が一人いた。若い男だった。ガラスを割るような人間がガラス片を片付けるわけがない。つまりこの男は安全だ。近づいて話しかけても大丈夫だ。

 

「なにが起きたんです?」

 

「爆発のせいさ」

 

まさかとは思ったが部屋の木の板がくの字に曲がったのを思い出し、彼の言葉とすぐに繋がった。すごい衝撃ではあったが、まさかこんなに遠くのガラスまで割るほどのものだったとは。衝撃波というものだろうか。目に見えないだけに、それで窓ガラスが割れてしまうのが信じられなかった。体で受けても痛みも何もなかったからだ。しかし状況が状況だけに、その話に納得せざるを得なかった。

 

近くにあったパン屋のアルバニア人に聞いても、詳しい情報は入ってこなかった。事故だと思う、という曖昧な答えしか返ってこなかった。朝の8時過ぎに起きた初めの爆発から2時間以上が経過していた。しかしまだ確かな情報は得られていなかった。町には人の気配がなかったが、軍の車両が行き来しているのが目立った。あまり長居したい雰囲気ではなかった。それにやはり建物の密集しているところには居ない方が賢明だった。時間が経てばもう少し正確な情報も入ってくるに違いない。幸いアルバニア人の経営しているパン屋はこんな状況でも営業していたので水と食糧を買い込み、宿に避難することにした。

 

部屋に戻り、ガイドブックに記載されていたブラザビルで唯一の英語音声によるチャンネルだというFM92.6にあわせてみるが、情報通りではなくフランス語での放送だった。それでも根気よく英語のチャンネルを探してみた。するとコンゴ民主共和国キンシャサの放送局が英語での放送をしていた。しかし流れてくるのは爆発事故には何も関係していない、教育問題に関する相談事のようなチャンネルだった。ここはコンゴ共和国だ。英語での情報はやはり期待できなかった。

 

夕方になると爆発は収まった。朝から数えて十数回の爆発があっただろうか。落ち着いたので町の様子をまた見に行くことにした。どうしても気になるし不安だった。

 

宿から近い商店にいたモーリタニア人が英語を流暢に喋った。そして状況を私に教えてくれた。彼によると「軍の武器庫で爆発が起き弾薬への引火を繰り返した」ということで、約1500人が負傷し、約200人が死亡したとのことだった。

 

商店のモーリタニア人はアルジャジーラを見たと言っていたので正しい情報のように思えた。アルジャジーラとは本社をカタールに置く英語とアラビア語によって放送される衛星テレビ局のことだ。アフガニスタンイラクの紛争の取材などでよく知られている。日本のメディアでは流れないようなリアルな紛争の状況なども放送される。24時間体制で放送しているので常に新鮮な情報を得ることができる。

 

この男の話は道筋が立っていて説明もしっかりしていた。モーリタニアといえば人口の99%がムスリムイスラム教が国教となっている国だ。モーリタニア人のこの男がアルジャジーラを見たというのも納得が出来たし、コンゴの放送局よりもアルジャジーラの方がやはり信用できたので、この男の話は信憑性がやはり高いと言えた。

 

パン屋のアルバニア人もそうだが、海外で他国の外国人に会うとほっとする。海外に出て働いている外国人は親切な人が多い。人種も文化も宗教も違うところで生活して、不便な思いをしているから、同じ境遇にいる人間の気持ちが分かるのかもしれない。事情を抱えて祖国を飛び出して働いている苦労人だから、人に優しく出来るのかもしれない。

 

またキリスト教徒は日曜日に祈りをささげるが、イスラム教の場合は金曜日が礼拝日になる。日曜日で営業していない中でも、イスラム教徒の営む商店は営業している場合が多い。この爆発事故の日も日曜日で、アルバニア人のパン屋も、モーリタニア人の商店も営業していて、助けられた。イスラム教過激派がテロを起こすイメージが強く、日本ではあまり良い印象を持つことは難しいかもしれない。しかし出会ったイスラム教徒の人たちは、あたりまえのことなのだが、そのテロリストのイメージとは大きくかけ離れていて、穏やかで優しく親切な人が多かった。

 

日は寂しそうに傾きながら空に茜色を流しこんでいた。爆発も収まり、情報も入ってきて、少しは安心することができた。しかしできるだけ早くこの町から出たほうがよさそうだった。また爆発が起こらないとも言い切れなかった。そしてこのタイミングで怪我や病気をしても病院はすぐに対応などはしてくれない。翌日にカメルーンのビザを取りにいくことを決めた。

 

宿の近くに到着すると人が増え始め、子供たちは無邪気に走り回っていた。疲れていたので私はまっすぐ部屋に戻り、休むことにした。

 

 

5.爆発事故の翌日

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人は時間に支えられているのかもしれない。こびりついていた重たい不安は、朝起きると幾分か軽減されていた。昨日のことなどあっという間に過去になるようだ。

 

部屋を出て広場に行ってみることにした。人の数が増えていた。100人くらいは集まっているようだった。片言の英語を集めてみると、彼らはどうやら家を失った人々だった。爆発現場の近くに住んでいた住民が避難してきたのだ。爆発で家屋が崩壊し、家財道具を担いでこの広場に避難して来たというわけだ。泊まっていた宿の隣は難民キャンプと化した。

 

しかしどういうわけだろう。このような状況なのにもかかわらず、人が意気消沈している様子が全く感じられない。住む場所を失った人から発せられるはずの絶望が一切みられなかった。女性たちは集まり地面に座り込みおしゃべりをしているし、子供たちはキャンプ内を楽しそうに走り回っていた。非常に不謹慎な言い方をすれば、ピクニックにでも来ているかのようなノーマルさだった。忘却という神が我々に与えた能力をフルに活かせる人たちなのかもしれなかった。

 

朝食を求め宿の辺りをさまよい歩いた。宿からほど近いところに商店を見つけたので、そこで朝食になりそうなものを探すことにした。その商店の傍でフランスパンを持った男たちが黙々と口を動かしていた。昨日からろくに食事をしていなかったので、たまらず同じものをくれと指をさし商店の男に注文した。コンゴ共和国は1960年に独立するまで約80年間フランスの植民地だったが、そのときの名残りで今でもフランスパンが多く食べられている。

 

男は半分にカットされたフランスパンに縦に切れ目を入れ、出来た溝にナイフでバターを塗り込み、そしてその溝に味付けされたひき肉をこれでもかと詰め込んだ。フランスパンの表面はサクッと仕上がっていて、中はフワフワでかつ弾力があり、小麦粉の香ばしい香りは鼻腔をくすぐった。ケチャップで甘く味付けされたひき肉は一粒一粒がまるで舌の上で踊るようであったし、バターはフランスパンの香りに優しく寄り添うように調和し、尖ったひき肉の旨みを穏やかなものに変えていた。腹ペコだった私には大袈裟なほどおいしく感じられた。

 

朝食を終えたので、カメルーンビザを取得しに大使館へ向かうことにした。地図で確認すると宿からは目と鼻の先ほどの距離だったので、5分も歩くことなく到着した。コンゴ共和国にあるカメルーン大使館に用のある人間など多くはいないのだろう、ガランとしたオフィスには暇そうな男が一人で椅子に腰掛けていた。

 

「観光目的ではマルチビザは出せないんだ」

 

恰幅のよい大使館職員の男がそう言った。

 

マルチビザとは一度国外に出ても再入国が可能なビザのことだ。中央アフリカ共和国へは陸路でカメルーンから向かうことになるが、中央アフリカ共和国へ入国した後に、まともにその首都であるバンギにたどり着けるという保障はなかった。中央アフリカ共和国へ入国してからバンギまでは、道路距離でおよそ1000キロはあった。引き返さなければならない状況を考えて、カメルーンのビザはどうしてもマルチビザにしておきたかった。アフリカでは円滑に事が進まないという前提のもとで計画を立てなければならない。マルチビザの取得は、中央アフリカ共和国入国への私の定めたボトムラインだった。そういう線引きはどこかでしておかなければならなかった。

 

そのようなことも含めて、正直にこの男に自分の状況とこれからの予定を伝えた。話のわかりそうな男のような気がした。

 

すると予想以上にあっさりと応じてくれた。先進国であれば旅行者の事情などというものは判断の材料にはならず、その堅い決まりごとが変更される可能性は少ない。だがアフリカではそのような転覆は結構頻繁に起こる。

 

「俺はお前を助けるから、お前も俺を助けてくれよな」

 

無表情の奥の愛嬌が垣間見えた。絶対にルールを守る役人でもなく、足元をみて陰険に駆け引きをしながら賄賂を要求してくる役人でもなく、親しみのこもった賄賂要求をしてくる役人だった。こういう人間は一番やりとりがしやすい。

 

ビザは61000セーファーフラン(約1万170円)だった。これほど値が張るビザは初めてだった。その日のうちにビザの発行が完了するというので、夕方に取りに戻ることにした。

 

ブラザビルを脱出するためのバスを確認しにいくことにした。持っていたガイドブックによると、オセヨジョノーというバス会社が唯一、北のウェッソの町までバスを出しているということだった。今の状況でバスが動いているかどうか、バスターミナルに直接行き確かめなければならなかった。

 

距離があったのでタクシーを捕まえることにした。しかしどういうわけだろう、いくらタクシーを捕まえてもバスターミナルまで行こうとしてくれなかった。ガイドブックに書かれているバスターミナルの文字を見せると、皆走り去っていくのだ。10台くらい捕まえただろうか、ようやく英語を喋るタクシーの運転手がその理由を教えてくれた。

 

「バスターミナルは爆発現場から近いんだよ」

 

それが理由だったのだ。詳しい話は聞けなかったが、今まで走り去っていったタクシードライバーの態度がなによりの説得力を持っていた。爆発後の状況は依然として流動的であり、バスが動いていない可能性が高まった。

 

しかしどういうわけか不思議と不安も少なかった。大きな不安の後では人間は鈍感になるのだろうか。人間不安ばかり抱えて生きていけるものではどうやらないらしい。宿の脇にできた難民キャンプの人々の姿が頭に浮かんだ。彼らの図太さを少し分けてもらえていたような気がした。こういうときはとにかく飯だ、と自分に言い聞かせ、飯でも食いながら情報を集めることにした。

 

町にはまだガラスの破片が残っていた。アフリカでは、商店などに防犯のために鉄格子が付けられている所が多い。ブラザビルも例外ではなく、ほとんど全ての商店は鉄格子で覆われていた。爆発の衝撃波でガラスが割れる事に備えて付けられているものでは当然ないのだが、その鉄格子はしっかりと防犯の役目を果たしていた。慌ててガラスを修復する必要もないのだ。

 

ブラブラ歩いていると、どうやら食事を提供してくれそうな所を見つけたので、入ってみることにした。その食堂は看板も出ていないような所で、周りに植えられている木々が日光を遮断していたため、昼間だというのに中は薄暗かった。きっと魚を食わす店なのだろう、なんだか生臭く、そしてハエが飛び回っていた。そんな雰囲気にも関わらず店内は賑わっていて、食事をしながら男たちがビールを飲んでいた。不思議と落ち着ける場所だった。人が食堂で食事をしている姿を目にしたというのが、その理由だったのかもしれない。人が食堂で食事をする、というのは何処でも見る当たり前の光景なのだが、この無機質なブラザビルで初めて見た、人の日常風景である気がしたのだ。

 

食事をきちんと取る。無理はしない。体力の維持に努める。アフリカに入ってからは特に気をつけていたことだ。疲れたら休む。ストレスが溜まれば寝る。水分とビタミン剤はこまめに取る。そう決めていた。そのように自分なりに決め事をつくり戒めていたのだが、それでも一つだけ、守れていないことがあった。酒だ。マラリア薬を毎日飲んでいるので本当はよくないのだが、これだけはどうしても守れなかった。現地人とのコミュニケーションには酒が付き物なのだ、といえばもっともらしく聞こえるが、この暑いアフリカで水のような値段で売られているビールを、昼間から美味そうに目の前で飲まれては、我慢しろというほうが無理だった。決め事は一つくらい破る方がうまくいく、という至極勝手な持論を私の都合の良い脳はいつも展開させていた。

 

コンゴ人はキャッサバ芋を発酵させてつくる、マニョックと呼ばれるものを主食として食べるようだ。ねずみ色と茶色の中間のような色をしていて、大きく固めたものをカットしたためかどこかチーズのようにも見える。表面はザラザラしていて、舌触りは悪く、ずしりと重く舌の上に乗っかってきて、咀嚼するのになかなか気が進まない。臭みがあり酸っぱいだけで、砂を噛むように旨みはない。そんなマニョックと一緒に魚やチキンを食べるのがこちらのやり方のようで、私は魚を注文した。揚げ魚は硬くなっていてナイフが入っていかなかったので、面倒になり手づかみで食べた。水分のないマニョックと揚げ魚の組み合わせはどうやら失敗だったようで、それらをビールでグイと流し込んだ。

 

この食堂の人々は話しやすかった。宿の周りの避難民達は英語を聞くのも嫌がるほど喋ってはくれなかったが、この食堂の人達は英語での会話にあまり抵抗がなさそうだった。ウェッソの町までの交通手段について聞いてみると、やはりバスを利用するのが一般的な手段であるようだった。彼らがいうにはバスターミナルはあと2、3日もすれば車でいけるようになるだろう、ということだった。しかしそれは彼らのただの推測であり、つまり慰めでしかなかった。他の交通手段は存在しないかと尋ねてみると、飛行機というのがもう一つの選択肢であるようだった。エアコンゴブラザビルからウェッソまで運航しているとのことだった。

 

さらに多くの情報が必要だった。昼食を済ませ、町を歩き回り、英語を話せる人間を探して歩いた。しかしなかなか話ができる相手が見つからなかった。爆発の影響だろうか、閉まっている会社や商店が多かった。

 

そんな中、ケニア航空は営業をしていて、話を聞くことができた。もちろん彼らは英語を喋った。ウェッソまでエアコンゴが運航している飛行機で60000セーファーフラン(約1万円)、バスはやはりオセヨジョノーのみが運行しており25000セーファーフラン(約4170円)とのことだった。

 

カメルーン大使館に戻りビザを取得してから、宿に戻ってきた。難民キャンプと化した広場にはさらに多くの人が住み始めていた。彼らの姿はもうそこに何年も住んでいるかのように馴染んで見えた。自前の調理器具などで料理をしている人たちもいた。政府が水とフランスパンの配給を実施していた。また仮設テントの建設も始まっていた。思ったよりも対応は早くしっかりしているようだった。しかし汚れていくのは早かった。ゴミをその辺に捨てるので、綺麗だった広場はゴミだらけになっていった。マスコミが来てインタビューや撮影をしている姿も目立った。

 

マスコミに紛れ写真を撮っていたら、子供達が沢山近寄ってきた。このキャンプの子供たちは無邪気だった。カメラが好きなのか撮って欲しいといわんばかりに一定の距離を保ち、ニコニコ笑顔を作ったり、ポーズをとってきた。写真を撮ってやりその写真を見せてやったりしていると、「こっちへ来い」とその子供たちの母親と思われるおばさん連中が、私を呼びつけた。おばさん単体、ではなくおばさん連中だった。

 

「ギブミーマネー」

 

人を呼びつけて起き上がることもなく、地面に寝そべりながらそんな片言の英語だけ言い放ったのだった。おそらく子供たちの写真に対して金を払え、ということなのだろう。子供達の目の前で恥ずかしげもなくタカってきたのだ。コンゴ共和国の女性はどこか閉鎖的で、向こうから話しかけてくることは少ない。なにもなければ積極的にコミュニケーションを取ろうとはしてこない。男と女の顕著な違いだ。男は向こうから好んで話しかけてくる人間が多い。女性に声をかけられるとは珍しいと思っていたら、露骨な金の要求だったのだ。するとそんなおばさん連中の悪い影響か、無邪気な子供たちまで何か食わせてくれとジェスチャーで催促してきたのだった。

 

爆発の影響で家を失った避難民たち。金や食糧の催促を繰り返す連中がそこにはいた。しかし見ていて少しも後ろ向きな印象を受けないのはどうしたことだろう。アフリカで物乞いの類にはいくらでも会ったが、彼らのようなニュートラルな物乞いというのは珍しかった。清々しいという形容詞はいささか言いすぎかもしれないが、親しみやすいという言い方がこの物乞い達には通用した。物乞いの持つ見ていることすら憚られるあの痛々しさがなかった。物乞いから発せられるはずのあの負の力、弱った人間の響かない叫び、手の施しようのない絶望感、そんなものがここのキャンプの人間たちからは感じられなかった。ここの連中は子供がお菓子を欲しがるような無邪気さで物乞いをしてきた。そんなとても軽い一球を投じてきたのだ。ストライクを取れれば儲け物といった感じだった。卑屈になることなどなく、そこには惨めさの欠片もなかった。このような悲劇的な状況でもこの明るさを保てる彼らに、むしろ愛着のようなものすら感じ始めていた。

 

 

6.中央アフリカ共和国ビザを取得

 

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キャンプの人のざわめく声に私は起こされた。相変わらずどこか楽しそうに聞こえてくるのが実に不思議だった。まだ早朝だというのに子供達は走り回り、大人達は早起きをしてただひっくり返っていた。どこか「平和」という言葉が当てはまりそうな光景にすら見えた。しかし彼らはたったの2日前に家を失っているのだ。キャンプ内を歩き回り「ギブミーマネー」を10回ほど聞かされてから、朝食を食べにいくことにした。

 

昨日朝食を食べた場所に近い所で、なにやら料理をしているおばさんを見つけた。屋外で大きな鍋を火にかけていた。これはなんですかと聞いてみるも、やはり通じなかった。粥のように見えたのでライスかと聞いてみると、「ウィ」とフランス語でイエスといったので、どうやら粥で間違いなさそうだった。ガーリーと呼ばれる甘く味付けされた粥だった。一杯で100セーファーフラン(約16円)だった。米を煮たものに練乳を混ぜただけのシンプルな料理だったが、そんなものがひどく美味かった。

 

朝食を済ませると、中央アフリカ共和国大使館へビザを取得しに出かけた。隣国するカメルーンにも当然大使館は存在し、ビザを取得することが可能なのだが、カメルーン入国後はその首都を経由せずに中央アフリカ共和国へ入国する為、このブラザビルでビザを取得しておく必要があった。

 

このビザさえ取得してしまえばブラザビルを出発することが出来る。爆発は収まり、町も落ち着きを取り戻していたが、理由もなく災害というのは続くものであり、できるだけ早い退却が必要だった。

 

中央アフリカ共和国大使館はそれほど遠くなかったので歩いていくことにした。相変わらず不気味なほど人に会わなかった。途中大統領邸宅の周辺を歩いていたが、軍の車両が頻繁に目の前を通過していった。人の気配のしない大通りを歩いていると、窓ガラスにスモークのかかった高級車が暴走車のごとくクラクションを鳴り響かせながら、他の車両を蹴散らし通過していった。大統領邸宅の周辺だったので、大統領が乗っていたのではないかと思った。ありえない話でもなさそうなのがこの国だった。暴走していた高級車がこの国を象徴しているような気がした。

 

中央アフリカ共和国大使館に到着した。住宅街に紛れるようにひっそりと佇んでいた大使館は、看板がなければそれとわからないような外観だった。中に入ったが人の姿が見えない。すみませんと声を出して人を呼んでみると、中から小さな子供が出てきた。そして何か言ったのだが、フランス語なのでまったく言っていることは分からなかった。職員の子供が留守番でもさせられているのだろうか。大使館職員が大使館を留守にして、こんな小さな子供に留守番をさせる国とは、どんな国なのだろう。なんだか急にワクワクしてきた。

 

この感覚を味わいたいというのがアフリカを旅している理由の一つなのかもしれなかった。日本と大きくかけ離れているということだ。国を比較して良い悪いではなく、価値観に差があればあるほど面白い。想像力の幅は嫌でも広げられ、幸せという言葉の定義を考えさせられたり、孤独な状況が急に楽しく思えてきたり、そんな心がたらい回しにされるような充溢した混淆を味わわせてくれる。子供の頃にだけ経験できる未知との新鮮な戯れ、そんな感覚を再び呼び戻してくれるような場所とも言えるのかもしれない。人は好奇心の忘却を強いられて大人になるものだし、それを達成することが良しとされる風潮もある。その境界線を越え歩みだすことで大人という称号が与えられる。そして麻痺し、やがて人間の仮面を付けた空虚に導かれていく。退屈というアラームの付いた時計は時に人を目覚めさせ、迷いという執事は気まぐれに人をアフリカに導くのかもしれなかった。

 

フランス語を喋る子供が相手では為す術もなく、部屋に備え付けられていたソファで大人を待つことにした。しばらく待つと若い男が現れた。子供を大使館に置いて留守にするような人物なのでどうしようもない奴だとイメージしていたのだが、実際その男は思っていたイメージとは大きく異なり、見るからに誠実そうな男だった。そしてビザを取得したい旨を伝えると、こちらがびっくりしてしまうほど丁寧に申請用紙の記入をお願いされたのだった。

 

つまりこういうことだ。彼らにとっては子供を残してしばらく大使館を留守にすることは、日常の当たり前の行為ということなのである。現にこの優しそうで物分りのよさそうな男は、微塵も悪びれた様子を表すことなく対応していた。自分が無責任なことをしているなどとは少しも思っていない。しかし、この男はどこからどう見てもきちんと気を使うことができる人間だった。それは少しの対応だけで十分に伺うことができた。子供を大使館に留守番させ、これだけニュートラルに無邪気に何事もなかったかのように丁寧な対応ができるというのは、なんだかそれだけで小さな奇跡だった。日本ではそんなことが許されない空気がいたるところで漂っているので、役人がそのような態度をとることなど不可能だ。八百屋のような大使館だった。

 

申請用紙に「あなたは軍人ですか?」という質問があった。ビザ申請の質問で軍人かどうか聞かれたのも、これが初めての経験だった。イエスと答えるとビザの発給に影響でも及ぼすのだろうか。好奇心を刺激されうっかりイエスにマルをつけてしまいそうになったが、なんとかこらえた。ビザ代は45000セーファーフラン(約7500円)だった。

 

一時間ほど待つと、あっさりビザが発給された。手続きは迅速で、賄賂の要求は全くなかった。中央アフリカ共和国がますますどんな国か気になってきた。旅のクライマックスになる予感がした。

 

 

7.騒乱と炊き出し

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ビザを取得したあと、昨日訪れた食堂に再び行ってみることにした。難民キャンプでの炊き出しのアイデアを住民からもらおうと考えたのだ。私はボランティアには興味がなかったが、この時は何かしようなどと考えていた。日本を離れ非社会的な生活を送っていると、嫌でも自分の役割に飢えてくる。そんな社会にとって必要とされたい、という欲求が嫌でも高まってくるのだ。

 

そんな欲求を満たすためだけに、炊き出しでもしたい気持ちになったのだろう。つまりそのときのボランティアは、目的ではなく手段だった。自分の欲求を満たすためのただの手段だったのだ。非常に自虐的な言い方をすれば、困っている人を利用して自分の負い目のようなものを解消するため、と言えるのかもしれなかった。人を助けるどころかむしろ人に助けられているとも言える。ボランティアと呼ばれる奉仕活動を他人の為にしている人と違い、私はきっとただのエゴイストだった。

 

食堂に到着すると、昨日と同じようにやはり人々は明るいうちからビールを飲んでいた。しかしレストランで出てくる食事を眺めていても、炊き出しのアイデアはなかなか浮かんでこなかった。この日の客はそれほど英語を喋らず、情報も集まらなかった。仕方がないのでマーケットで食材でも眺めながらアイデアを浮かばそうと、彼らに場所を聞き行ってみることにした。

 

近代的な食料品店がそこにはあった。ブラザビルの富裕層向けの食料品店なのだろう。中に入って物色してみると、品物の値段がとにかく高かった。レタスが1キロ4800セーファーフラン(約800円)で売られていた。1キロ800円のレタスを買うコンゴ人が存在するということだ。貧富の差は計り知れなかった。レタスを見て驚愕し、逃げるようにそのスーパーを後にした。

 

爆発の情報をくれたモーリタニア人のところにアイデアをもらいに行くことにした。彼なら何か有益な情報を持っていると思った。

 

ブラザビルにはそういうマーケットはないよ」

 

やはり一般人向けのマーケットは存在しないのだという。確かにブラブラと歩き回ってみてもそれらしいマーケットの姿は確認できなかったのだ。

 

すると材料調達の目処がたたない。さてどうするか、と考えていたそのとき、ふと朝に食べた路上のおばさんの料理を思いだした。あのおばさんが作っていた料理なら簡単に作れそうだし、材料もシンプルだった。米と練乳だけだ。どうして今まで考えが及ばなかったのだろうか。

 

泊まっていた宿にはレストランが併設されていたので、そこでキッチンと器材を使わせてもらえないか聞いてみることにした。そこで調理できるのならば難民キャンプは目の前なので、配給も行い易いのだ。

 

「ノー」

 

あっさりと断られてしまった。しかしそれは当然の結果だった。というのも、宿泊していたにもかかわらず高そうだからと、そのレストランを一度も利用したことなどなかったのだ。

 

私は屋台のおばさんのところに向かうことにした。

 

おばさんは汗を流しながら大きな鍋と格闘していた。やはりこの場所を使わせてもらうというのが一番確実な方法のように思えた。もし使わせてもらえるのなら、料理をするための器材も全て揃っているし、難民キャンプからもそれほど離れていないので配給も行い易い。半日ほど歩き回り、結局は宿の近くで都合の良い場所を見つけるという、灯台下暗し的な展開となった。

 

しかし話をしてみてもやはりおばさんは首を傾げて眉間にしわをつくるだけだった。フランス語の辞書は持っていたが、面倒なのでいつも持ち歩くことはしていなかった。辞書はただのお守りとしていつもバックパックに入っていただけだ。

 

すると店で粥を食べていた男が間に入ってくれた。エリックと名乗ったその男は滑らかに英語を喋った。空軍のパイロット訓練生だということだった。まるでリスのようなクリッと綺麗な目をしていて、物腰は柔らかく、ゆっくりと喋る男だった。こういう男はどこから現れるのだろう。いつも完璧なタイミングで登場して助けてくれる。

 

エリックが代わりにおばさんに説明してくれた。そしてついにキッチンを使わせてもらう許可を得た。

 

キッチンはおばさんの仕事が終わり次第使わせてくれるようだった。材料はおばさんに聞き、エリックの手伝いを得て近くの商店で手に入れた。米10キロと練乳1リットル、それだけだ。エリックに配給も手伝ってくれないかと頼んでみたが、仕事に戻らなければならないようだった。しかしやはり協力してくれる人間は欲しかった。いきなり訳のわからない東洋人の男が食べ物を持っていっても、不審がって食べてもらえない可能性があった。

 

料理に使う水を宿に汲みに行くことにした。おばさんの炊事場の近くには共同の水場があったのだが、夕食の支度のためか地元の女性達による列ができていたのだ。そして水はちょろちょろとまるで馬鹿にしたように少しずつしか出ていなかった。1つのポリタンクが一杯になるまで10分はかかりそうだった。彼女たちはこんな水場を共有して食事の準備をしなければならないのだ。気の短い私は決して待てなかった。

 

宿に戻り、水をポリタンクに詰めていると、突然空模様が一変した。灰色の雲がまるで何かに呼ばれたようにやってきて、叫び声のような風が突如吹き始めた。ポリタンクを持ち宿に向かう途中はそのような気配は一切なかった。この後雨が降る、それは誰にも簡単に予測できた。

 

すると外が騒がしくなった。私は人の声がする宿の入り口の方に向かった。するとオーナーが入り口のゲートを閉じようとしているのが見えた。なにやら慌てている様子だった。そして次に飛び込んできた光景に、私は思わず息を飲んだ。

 

ゲートの外に沢山の人間がいたのだ。雨に濡れるのを予期したキャンプの人たちが、宿の敷地に入ろうと押し寄せてきたのだった。物凄い数だった。難民キャンプに住む人たち全てに必要なだけのテントは用意されていなかったのだ。2メートルほど高さのある柵がこの宿の周りには張り巡らされていたが、人々はガシャガシャとその柵を揺らしながらなにやら喚き散らしていた。

 

「何で俺達を入れないんだ!ふざけるな!人でなし!」

 

そのようなことを言っていたのかもしれない。空はさらに暗くなり、風もスピードを増していった。天候が悪化するにつれて、柵の外には人が増えていった。そしてついに雷が鳴り始めると、それが合図でもあったかのように男たちが堰を切って柵を登り始めた。次から次へと柵をよじ登り宿の中に男たちが侵入した。そして今度は金品の奪い合いでもするかのように、オーナーや従業員と取っ組み合いを始めた。

 

私はゾッとした。さっきまで穏やかにキャンプにいた人たちが豹変したのだ。私の中で想像され、実際以上に綺麗に修飾されていた彼らの人間像は、急に闇の中へと沈み見えなくなった。代わりに穏やかさと凶暴さが同居する人間の憎むべき特徴を目の当たりにした。そのような人間の持つ両極性との邂逅はこれまでにもあったが、これほど明白に分かりやすく目の前に現れたことはなかった。それは本来隠されていなければならないものだった。ずる賢く、また控えめでなければならないものだった。人はそのことに無頓着のように見えるが、心の奥底に押し留めておかなくてはならないということを知っているはずだった。むき出しにされた欲求。それはシンプルなだけにまっすぐ恐怖へと直結された。

 

私は建物の隅でその状況を見ていることしか出来なかった。

 

そしてついに雨が矢のように降ってきた。もうおかまいなしに人々は柵をよじ登っていた。雨は当分止みそうになかった。また宿の入り口付近は、なだれ込んで来た人間で埋め尽くされていて、外に出ることもできそうになかった。私は為す術もなく部屋で横になっていた。

 

しばらくすると、トントンと部屋をノックする音が聞こえた。ドアを開けると警察官が立っていた。フランス語でなにか言ったのだが、分からないというアクションをしたら去っていった。

 

それからしばらくしてようやく雨の音がやんだ。外に出てみると雨はだいぶ弱くなっていた。先ほど柵をよじ登った人々は、宿の敷地内で火が消えたようにおとなしく座っていた。殺伐とした雰囲気はなくなっていて、水を打ったように静かになっていた。ゲートの前にも警察官が来ていた。

 

おばさんに借りていたポリタンクを返さなければならなかった。ずいぶん時間が経っていたので、私は宿を出ることにした。水を入れておいた20キロはあるポリタンクを持ち、人を掻き分けてゲートの前までいったが、まだゲートには鍵がかけられていて開かなかった。オーナーの姿も見当たらなかった。近くにいた従業員に聞いても言葉は通じなかった。仕方がないので柵の外にいた男に合図を送り、ポリタンクを柵の上から受け取ってもらった。そして私も柵をよじ登り、なんとか宿の外に出ることに成功した。

 

重いポリタンクを引きずるように運びおばさんのところまで戻ってきた。いつも無愛想なおばさんが笑っていた。そして私になにか言った。もちろん言葉はわからなかったが、「大変だったねえ」とでも声をかけてくれたのだろう。そしてなんということだろうか、おばさんはすでに料理を完成させていたのだった。おそらくは雨が止んでから、私が戻るのを見越して作ってくれたのだろう。粥に練乳を混ぜただけの料理、味は甘酒に少し似ている。雨のあとで体が冷えている人もいるだろうから、暖かいこの料理はきっと喜ばれるに違いなかった。

 

さっそく配給しにいくことにした。配給はおばさんの子供2人に手伝ってもらうことした。中学二年生くらいの女の子と、小学校高学年くらいの男の子だ。彼らはいつもおばさんの手伝いをしていて、この日も炊事場にいた。彼らに一緒に来てくれと身振り手振りで伝えると、ついてきてくれたのだった。

 

粥が入った巨大な鍋は、工事用の一輪車を貸してくれたので鍋を載せそのまま運ぶことにした。キャンプの中央に鍋の入った一輪車を止めると、みんなそれが食事の配給だとすぐに分かったようで、説明するまでもなく人々が食器を持って集まってきた。慌てて私と女の子の2人で粥を取り分けた。

 

そして30分もしないうちに、およそ100人分はあったと思われる粥はなくなった。

 

炊き出しは2日間に渡り実施した。やはりおばさんとその子供達、そしてエリックの手伝いを得ながら。エリックは翌日もやるなら呼んでくれと携帯番号を渡してくれていた。

 

今回炊き出しを実施したことで、社会の役に立ちたいという欲望は十分に満たされた。しかしなによりも大事なことは、人の協力を得られたということだった。ボランティアはその副産物にこそ本当の価値があるのかもしれない。そんなことをウェッソに向かうバスの中で私は考えていた。

 

気がつけばコンゴの表情が少し変わっていたように感じられた。

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