時間がくねくねしてなくてよかった

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アフリカ児童労働の現実【タンザニア・ガーナ・ギニア・セネガル】

これはアフリカを旅しているときに遭遇した児童労働の現実である。

 

タンザニアでは新聞売りの少年に会い、靴を売る少年と一緒に働いた。

 

ガーナではカカオ農園で働く子供たちの話を聞いた。

 

ギニアでは車を押して金を稼ぐ子供や、果物を売り歩く子供を見た。

 

セネガルでは学校が始まる前に食べ物や金をもらう子供たちに遭遇した。

 

アフリカで必死に働く子供たちはとても生き生きしていた。

 

 

タンザニアでの児童労働

靴を売る少年エディ

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タンザニアのダルエスサラームでの話だ。いつも酒を飲みに通っていたバーがあった。繁華街にひっそりと佇む小さなバーだった。落ち着いた雰囲気で居心地がよく、バーのママさんは鮮やかな色のタンクトップをクールに着こなす、カッコイイ人だった。彼女はいつも美味い酒を提供してくれた。

 

アフリカに住む多くの若者はサッカーに熱中している。私が旅をした多くの地域では、チェルシーや、マンチェスターユナイテッドや、ヨーロッパの有名クラブチームのゲームシャツを人々はよく着ていた。路上でも沢山売られていて、そんなものを着ていれば彼らとすぐ仲良くなれた。私はそのためゲームシャツを数枚購入して、アフリカではいつも着るようにしていた。中でもチェルシーはアフリカでは大人気だったので、そのユニホームを着ているとそれだけで人々の表情が違って見えた。

 

タンザニアも例外ではなく、みんなサッカーに熱中していた。いつも通っていたバーには小さなテレビが備え付けられていて、人々はサッカー中継がある日にはそこに集まってきた。そしてそのときだけ、静かなバーは賑やかになるのだった。

 

そのバーでエディという少年に知り合った。彼はサッカーが大好きで、中継のある日にはいつも姿をみせた。コーラの瓶を握り締めながら、彼はいつも歓声を上げていた。毎日のように通っていた私は彼と仲良くなり、それ以来町で会うようになった。彼は17歳にもかかわらず、地方都市に住む親元から離れ、タンザニア第一の都市ダルエスサラームで一人生きていた。田舎には仕事がなく、金を稼ぐためだというのがその理由だった。

 

他のアフリカの国々と同様に、タンザニアにも路上の物売りが多かった。きちんと収入の得られる仕事に就けない人は、物を売り歩いてわずかな利益を重ねていくしかないのだ。バスで移動するときなど、バスが停車する度にどこからともなく人が集まってきては、こしらえた商品を窓の外から手を伸ばして見せてきた。それは飲み物や菓子、果物、野菜、新聞、そして手作りのカゴまで様々だった。小さな子供も必死に他の人に負けじと、精一杯手を伸ばし商品を向けてきた。炎天下の中、汗を拭き、数十円の品物を売り続けるのだ。そんな光景をバスの高い席から眺めるのは、決して気持ちのいいものではなかった。

 

エディはダルエスサラームのダウンタウンで靴を売る仕事をしていた。路上に靴を並べて売るのだ。エディの職場は通っていたバーから近く、そのため頻繁に訪れていた。そこで働く人たちはエディのほかにも何人かいたが、皆エディと同じ少年ばかりだった。毎日エディはそこにいた。休みはないのかと尋ねると、毎日働いているのだとエディは言った。

 

彼らの仕事がどのようなものか知りたかったので、彼らにお願いし一日だけ一緒に働かせてもらうことにした。彼らの仕事は朝8時から始まった。その時期タンザニアは雨季だったので、まずは雨よけのテント設営からはじめる必要があった。みんな手際よくテントを設営していった。勝手が分からない私にも、少年たちは丁寧にテントの張り方を教えてくれた。2時間ほどでテントの設営と靴を並べる作業は終了した。

 

靴の数は多かった。それを彼らは毎日並べて片付けなければならなかった。靴を売る店があればこの作業は必要ないのだが、あるのは靴をしまっておくための小さな倉庫だけで、そのため路上で売るという方法しかなく、毎回並べて片付ける作業を必要とした。

 

販売の時間は穏やかなものだった。この時間は皆、座って雑談したり、食事に出かけたり、客が来れば対応したりした。近くに路上のカジノなどもあり、そこでギャンブルを見物したりもしていた。雨季に入った頃ということもあり、その日は長靴がいくらか売れた。それでも沢山売れたわけではなく、客は数えるくらいしか来なかった。

 

夕方6時になり彼らは店を閉めた。彼らは靴を丁寧に倉庫に戻し、テントをたたんだ。皆慣れていてとても手際よく片付けていた。全ての仕事が終わったのは夜の8時だった。朝の8時から12時間の労働だった。

 

給料は日払いだった。元締めの男は仕事が終わる頃にやってきて、エディたちにその日の給料を渡していた。

 

「いくらもらったんだ?」

 

エディに聞いてみた。

 

「少しだよ」

 

言いたがらなかった。少ないのだなと思った。悪いと思いながらも、どうしても知りたかったのでもう一度聞いた。

 

「3500シリング」

 

約175円だった。12時間働いて175円。ダルエスサラームではビール一杯で100円、レストランで食べたらランチでも50円はした。つまり給料は余りにも少なかった。

 

エディーともう一人働いていた少年と仕事の後に食事に行くことになった。

 

「今日は好きなもの飲んで食べてくれ」 

 

仕事を教えてくれた礼にと、彼らに焼肉をご馳走した。しかしそれは口実で、本当はおごってやりたくて仕方がなかった。ダルエスサラームの焼肉は1キロ400円で、2人の給料を合わせても買えない値段だった。

 

朝から晩まで働いて、ビール2杯でなくなってしまうくらいの稼ぎの人は多い。そして私のような観光客が彼らの前でビールを美味しそうに飲む。アフリカには金を騙し取ろうとしてくる人間が沢山いた。そしてそれはタンザニアでも例外なく多かった。金を持っている先進国の人間から金をだまし取ってやりたい気持ちはとても理解できた。それでも真面目に働いている少年たちがそこにはいたのだ。

 

エディは毎日1000シリング(約50円)貯金して両親に送金していると言っていた。エディの家を訪ねさせてもらったことがあった。電気も水道もない、ただ雨風が防げる、そんな空間だった。家賃は15000シリング(約750円)だった。

 

 

ガーナでの児童労働

カカオ農園を手伝う子供たち

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ガーナにいたときの話だ。ガーナといえば思い浮かぶのはチョコレートだろう。ガーナのカカオ農園での児童労働という話もよく耳にするはずだ。私はガーナを訪れ、児童労働が本当に存在するのかということを、人々に聞いて回っていたことがあった。児童労働など許せない、などと正義感を持つような立派な人間ではないが、せっかくアフリカに来たのだから、人に話が出来るまともな話題に1つでも取り組んでみようと、ささやかな奮闘をしていたのだった。

 

ガーナの首都アクラから田舎町にいたるまで歩き回り、人々に児童労働について話を聞いて回った。国営のカカオ農園にも訪れ、やはり児童労働の有無について尋ねた。ガーナで初めてカカオがつくられ今でも多く生産されている、マンポンという名の田舎町も訪れてみた。

 

「危ない状況で働かされている子供たちはいるんですか?」

「無理やりこき使われている子供たちはいるんですか?」

 

私がした質問はその2つだ。

 

「そんな子供いないよ」

「何いってんの、大昔の話だよ」

「30年前の話だよ」

 

どこに行って聞いてみても、みんな笑いながらそう答えたのだった。しかし私は聞きながら気がついていた。児童労働と聞くと、「労働すべき年齢に満たない子供が危険で過酷な状況で働いている」というイメージが一般的であると思う。しかし私が訪れた場所は、そんなイメージとは大きくかけ離れたところだったのだ。カカオを生産している田舎町の人々は皆穏やかに暮らし、子供たちはのびのびと遊んでいた。児童労働という言葉が持つイメージとは、およそ無縁の場所だった。それでもしつこくガーナに滞在していた間はおよそ100人に児童労働の有無について聞いて回った。しかし誰一人として児童労働を認める人はいなかった。

 

国際労働機関は最低年齢条約を定め、児童労働の最低年齢を規定している。そしてガーナもその条約に批准している。以下はその条約の概要だ。

 

『過去に採択された同分野における10条約を改正するこの条約は、児童労働の廃止と若年労働者の労働条件向上を目的に、就業の最低年齢を義務教育終了年齢と定め、いかなる場合も15歳を下回ってはならないものとする。しかし、開発途上国の場合は、さしあたり14歳とすることも認められる。
 若年者の健康、安全、道徳を損なうおそれのある就業については、最低年齢は18歳に引き上げられる。軽易労働については、一定の条件の下に13歳以上15歳未満の者の就業を認めることができる(途上国の場合には12歳以上14歳未満)。演劇などへの出演については、例外が認められる。適用範囲は、少なくとも鉱業・土石採取業、製造業、建設業、電気・ガス・水道事業、衛生事業、運輸・倉庫・通信業、農業的企業を含むものとされる。一般教育、職業教育または専門教育のための学校その他の訓練施設等における労働には適用されない』

(国際労働機関《ILO》1973年の最低年齢条約《第138号国際労働機関HPより アクセス日:平成27年2月5日〈http://www.ilo.org/tokyo/lang--ja/index.htm〉)

 

カカオ農家の子供たちが家の手伝いをしていて学校に行けないという話はあった。規定された最低年齢に満たない子供たちもきっと沢山いるだろう。しかしそれを憎むべき児童労働と捉えているガーナ人は私が話をした中にはいなかった。たしかに先進国の人の目からみたら、家の手伝いをしていて学校に行けないのは可哀そうだと思うかもしれない。ガーナと先進国の人間の温度差が生じるのは当然だろう。しかし先進国の人間が持つ眼鏡をかけて子供たちを見ている人は、私がガーナで出会った人の中には一人もいなかった。

 

 

ギニアでの児童労働

車を押して金を稼ぐ子供たち

 

ギニアのラベという町にいたときのことだ。西アフリカではよく5人乗りの乗用車が相乗りタクシーになっていた。そしてドライバーは金を儲けるために、そんな5人乗りの乗用車に平気で客を7、8人も乗せたりする。タクシーに乗っていると、子供がひざの上に乗っかってくるという冗談のような事実がある。あるドライバーは運転席にも客を乗せ、体をよじりながら運転をしていた。人間とは必要に迫られれば大抵のことはやってのけるのだ。ポンコツ乗用車に沢山人を乗せ、荷物もまるで夜逃げでもするかのようにこんもりと車上に高くに積まれるので、完全に重量オーバーとなる。そしてエンジンはのべつ幕なし悲鳴を上げることになる。

 

私はそのラベという町で、次の町に向かうための相乗りタクシーを探していた。すでに車は見つけていたが、他に乗客が集まるのを待っていた。乗客はすでに私を含め4人いたのだが、ドライバーはもっと乗客を集めようとしていた。そして後部座席に6人詰め込み、ドライバーを含めて8人集まったところで出発が決まった。私は他の乗客を待つために、そのとき3時間も待たされた。そして荷物は適当に山積みにされたので、私の鞄などは他の荷物に埋もれてペシャンコになってしまっていた。

 

車がようやく出発した3分後、早くも車は止まった。私は呆れて物が言えなかった。3時間待たされた挙句に、3分で車が止まってしまったのだ。すると子供たちがどこからか集まってきた。そして止まった車の後ろに立ち、車を押し始めた。するとドライバーは、まるで子供たちがくるのが分かっていたように運転席に戻り、器用にギアチェンジさせ、エンジンを再始動させた。子供たちはドライバーの方へ行き金を貰っていた。ドライバーも当たり前のように金を渡していた。

 

その町では車が止まるのが当たり前の状況で、それを知っている子供たちがいて、彼らは金になるからと車を押しに集まってくるのだった。

 

果物を売りに来る子供たち 

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ギニア山奥の、マリヤムブレという田舎町に向かっていたときのことだ。ギニアの首都コナクリは混沌という言葉がぴったりの落ち着かない場所だった。しかしギニアの山奥というのは自然豊かで果実も豊富に実り、まるで桃源郷のような場所だった。人も素朴で、裸同然の子供たちが鼻水を垂らしながら走り回っているようなところだった。

 

私は相乗りタクシーで移動していた。ドライバーは途中フグという小さな町に立ち寄った。そしてその町でドライバーが車を停車させた途端、どこからか子供たちが車に駆け寄ってきて、物を売りに来たのだった。汚れたTシャツを着て、そのTシャツに沢山果実を抱えて子供たちが売りに来た。まだ小学校低学年くらいの小さな男の子と女の子だった。買うと言う前から、開いていた車の窓から私の膝にマンゴーやオレンジをポンポン放り込んできて、「センクソン!センクソン!」と叫んできたのだった。センクソンとはフランス語で500を意味する。つまり500セーファーフラン(約80円)になります、ということだ。

 

「メルシー!!」

 

私から金を受け取るとそう叫んで、彼らは裸足で何処かへ消えていった。

 

セネガルでの児童労働

学校が始まる前にお金や食べ物を集める子供たち

 

セネガルのロッソというモーリタニアとの国境の町にいたときのことだ。ある日早起きをして、朝食のフランスパンなどをかじりながらブラブラと散歩していたとき、空き缶や空き箱を持った小さな子供たちに遭遇した。時刻は朝の7時になる前だった。私はそのとき国境を通過するのを待たされていてひどく暇だったので、そんな彼らをしばらく観察していた。彼らが何をしているのかと思ったら、人から金をもらいながら歩き回っていたのだった。洗面器やカゴのようなものを各々が持ち、せっせと集金していた。そして彼らは金だけでなく米、パスタ、クッキーなど、食べ物も貰っていた。

 

そして彼らは私のところにもやってきた。話をしてみると、彼らはきちんと学校にも行っているとのことだった。まだ中学生くらいのやんちゃ盛りな子供たちだった。セネガルの公用語はフランス語だが、彼らは英語も喋った。学校へ行く前に集金している彼らに、なぜそんなことをしているのかと尋ねると、「生活費の足しにする」という返事が返ってきた。

 

先進国で恵まれない子供たちの為にと、募金活動をしているのと同じことだと思った。しかし異なる点は本人たちがそれを実施していたということだった。その恵まれない子供たちが自ら募金活動をしていたのだ。そしてそれは明らかに物乞いとは一線を画するものだった。

  

彼らはまるで部活動でも行うように元気に走りまわり、活発であったし、ハキハキしていたし、目などはキラキラしていた。英語でコミュニケーションをとることが出来るのだから、きちんと勉強もしているのだろう。そんな彼らが毎朝学校へ行く前に、金に余裕のある人たちに自ら頭を下げて、金や食べ物をもらっていたのだ。そこには人からただ施しを受けようといった種類の卑屈さは微塵も感じられなかった。助けられるという消極的なものではなく、積極的な態度が見られた。彼らは「元気に物乞い」をしていたのだ。

 

彼らの表情にはエネルギーと希望を感じさせるものがあった。貧しい国に生まれ、貧しい家庭で育ち、食べるものもまともになく、汚れきったTシャツに破れたズボン、そして穴の開いたサンダルを履きながら、惨めな雰囲気など一切感じさせずに、バイタリティを溢れさせていた。

 

その子供たちは私から食べかけのフランスパンをもらっていくと、ニコニコと楽しそうに仲間同士連れ立って去っていった。

 

 

生きるために汗を流す子供たち

児童労働の話を、ガーナの首都アクラで出会ったドイツ人の女性としたことがあった。そして彼女は激しく児童労働を批判して、私に唾を飛ばしてきたのだった。彼女の中では、児童労働という言葉が持つ意味がその枠を越えて、原因と書かれたプラカードを掲げながら一人歩きをしていた。つまり貧困が原因で児童労働が起きているという考えにも増して、児童労働が原因で子供に危害が加わっているという考え方だったのだ。児童労働が原因で子供たちが学校にいけない、危険な環境で働かされている、そう彼女は言っていた。彼女は児童労働そのものを強く批判していた。彼女の持つ児童労働という名の天秤は、原因と結果が均衡している状態にあったのだ。彼女は私にかかった唾を拭うことなく去っていった。児童労働は彼らが生きていくために取っている手段であり、生きる術だった。その現状を正しいものという認識をすれば状況は変わらないということだったのかもしれないが、少なくともいま貧困に直面している彼らに、未来の子供たちのために児童労働をやらないという選択肢など、思い浮かぶわけもないのだ。みんなその日の食事を確保しなければならないし、その日を生きるために必死なのだ。

 

アフリカでは金を持たない子供たちが働いていた。金を持つ子供たちは働いていなかった。貧しい子供たちが働いていた。貧しくない子供たちは働いていなかった。働く子供たちを見て、「可哀そう」と感じたことは一度もなかった。仕事を欲しがっている、金を欲しがっている子供は沢山いた。10円でも渡せば喜んで荷物を運んでくれたし、駆け足でジュースを買ってきてくれた。また履いている靴がスニーカーでも靴を磨こうとしてきた子供もいた。冷えてもいないたった一本のペットボトルの水を握り締め、売りにきた子供もいた。大人が撒き散らす排気ガスと怠惰で曇ったアフリカで、子供たちは必死に汗を流していた。無気力に手のひらを見せてくる無表情な子供がアフリカに沢山いる中で、働く彼らを見るたびに感心したものだし、ただただ応援してやりたいと思うばかりだった。

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