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甲子園球児が人を惹きつける理由

なぜ甲子園球児はあそこまで輝いているのか。今回の甲子園では、金足農の吉田輝星選手に注目が集まり話題になったが、多くの人を惹きつける高校野球の魅力とは一体なんなのだろうか。甲子園には日本人を惹きつける何かがある。少し大げさな言い方かもしれないが、甲子園を見ていると遺伝子レベルで何か心に迫ってくるものがあるとすら感じる。きっと野球のルールを知らない人でも甲子園は見てしまったり、なんとなく見てたのに感動したりする人はいるだろう。それまでの経過が全く分からなくても、決勝戦の途中から見るだけで涙が出てしまうこともある。日本人に圧倒的に支持されている、日本人に好まれているということは、日本人が大切にしている何かが甲子園には隠されていると言い切ることができる。

 

 

なぜ甲子園の高校球児はあそこまで輝いているのか 

まずなによりも、一つの事に打ち込んでいる「ひたむきさ」ではないだろうか。その純粋さが高校球児の何よりの魅力ではないかと思う。彼らは社会の雑音に触れていない分、大人の汚さを知らない分、純粋さが保たれている。余計なことをあれこれと考えなくてもいいという状況が、彼らを純粋に野球へと向かわせることを可能にしている。真剣さ、ひたむきさ、そんなものが高校球児の顔からはあふれ出ている。

 

そして打算的でないところも大きな魅力だろう。そこには小賢しい大人の知恵は一切存在していない。ほどほどに手を抜くといった器用さもなければ、うまくごまかすといった姑息さもない。

 

そして一度負けたら終わりという刹那的なところも、甲子園の魅力になっているだろう。二度とは帰ってこない高校生活で、苦労を共にしてきたチームメイトと試合が出来るのが最後となれば、それはとても儚い。プロ野球のように次の試合、来年のシーズンを考えた計算はない。また次頑張ればいいということが通用しない。何度でも立ちあがってやり直せるものでもない。普段の生活では死ぬほど練習して泥と汗にまみれているのに、それでいて、グラウンドを去る時の潔さ、その一瞬にかけている人間の美しさが彼らからはにじみ出ている。

 

成長途上であるということも人を惹きつける要因かもしれない。自分の子供というわけではないのに、1試合1試合勝ち進む姿や明らかに成長が見て取れることなど、人が成長する姿を見るのは、きっと見ている人間に希望を与えたりするのだろう。さらに、成長途上であり、精神的に不安定なところがあるからこそ、ちょっとした要因でゲームの流れががらりと変わるような展開が生まれやすくなっている。そのプロ野球のように完成されていない不確実性が備わっていることも、甲子園のドラマを生み出す要因になっていて、さらに人を惹きつける理由になっているのかもしれない。

 

また、野球というスポーツが若者の純粋さに合致しやすいスポーツとも言えるかもしれない。野球というスポーツは、特に甲子園のように負けたら終わりという状況では、「戦略性」というものが勝利に与える影響がそこまで大きくないように思える。さらに、当然必要な戦略はおおよそ監督から出されるものであり、選手は全力で球を投げ、全力で球を打ち返し、そして全力で球を追いかけることに集中できる。戦略性というもしかすると純粋さを阻害する要因に邪魔をされることなく、とにかくひたむきな努力が分かりやすく結実するスポーツである野球、それが高校生の純粋さと合致しているのかもしれない。

 

また誰か一人のミスで試合がひっくり返ってしまうようなこともあるが、「気にするな」とそれを支えるチームメイトがいて、高校生の純粋な友情を垣間見ることもできるのが、野球というスポーツ、そして甲子園の舞台という希少性が生み出す魅力なのかもしれない。

 

さらには、甲子園という100年以上の時をかけて日本が築き上げてきた伝統、そしてそれを必死で守ろうとする高野連や高校野球の監督の異常なまでの厳しさ、それによって保たれる緊張感と威厳、さらにそれによって生み出される引き締まった1試合1試合、しかしそれが仇になり選手が無理をしやすい環境が出来てしまっていることなども含めて、それらの要因が甲子園をより特別な場所に変えているということも言えるのかもしれない。

 

なぜ人は甲子園に惹きつけられるのか

もう大人が無くしてしまったもの、もう取り戻すことが出来ない何か大切なもの、そんなものを、ひたむきに汗を流す高校球児を見ることで青春を疑似体験し、自分の中に少しでも取り込みたいと考えているのかもしれない。もしくは、打算的で汚れきった社会で生きている状況から一時的に目をつむりたいと思っている人もいるのかもしれない。

 

さらにはもしかすると、SNSの台頭など、人と人をつなぐ便利なはずの技術がますますその繋がりを薄く細いものにしているといった違和感、そしてそこから生じるもやもやとした閉塞感、ITだのAIだのなんだか胡散臭くてよく分からないものに世の中が移行していて頻繁な人間のアップデートを余儀なくされめまぐるしく変わる時代、そんな分かりにくくぼんやりとした生活の中で変わらず白球を純粋に追いかけている高校球児たちがいて、そんな彼らは息苦しさを感じる人たちには世の中に残された数少ない真実のように映るのかもしれない。

 

惑わされずに、純粋に、他の事に見向きもしないで野球に打ち込める場所、それが甲子園で、甲子園では限られた一握りの高校生しかプレーすることができず、ひたむきであればあるほどそこにたどり着く可能性が高くなる。ひたむきにまっすぐ走り続けてこなければ入場が許可されない場所。そんな特殊な環境が、日本人の理想、美徳の象徴のような場所が、これ以上ないほどひたむきな高校球児たちを刹那的に生み出すことに成功し、彼らのプレーを見ている人々に感動を与えているのかもしれない。

 

なぜ人は純粋さから離れていくのか 

逆を言えば、あの甲子園に出場している高校球児たちのような人間から遠ければ遠いほど、日本人としての理想の人物像から離れていくということになる。

 

高校球児と対極の人間を書き出してみると、まさに現代の腐り切った大人になった。

 

どこに向かっているか分からずフラフラしていて、社会の嫌な部分をこれでもかと思い知り、諦め、さらには嫌な社会に自分も染まり、自分の利益のために他人を裏切り、嘘をつき、周りの雑音に振り回されて価値観は頻繁に変わり、他人に合わせることを第一優先にして自分を見失い、そして自分を磨くことなどは無くなり、それどころか劣化していき、打算的に物事を決め、確実に利益になることしか行動に移さず、リスクは取らず、まだまだ人生はあるなどと自分に言い聞かせて行動しようとせず、自分のミスを認めず、さらには隠し、さらには他人になすり付け、その一方で人のミスはとことん責めて相対的に自分の価値を上げ、助け合わないで足を引っ張り、ねちねちと過ぎたことを考え続け、手は抜き、自分自身をごまかし、うまくやることだけに専念し、言い訳を繰り返す。

 

これが高校球児の特徴と反対の性質を持つ人間だ。おもわず目をそらしたくなるくらいひどい。甲子園球児がこのような人間になるとは到底思わないが、彼らほどではないにしろ、そこそこ純粋であった子供たちが、なぜこのように変わっていくのだろうか。きっと、利害関係なく高校球児たちに厳しく熱心に指導する高校野球の監督のような、道に外れないように絶対的に導いてくれる大人の存在は大きいだろう。高校を卒業すればもう立派な大人と社会からは認識され、熱心に指導してくれる人も周りには少なくなってくる。そして社会に出れば、嫌でも利害関係のある人たちに囲まれることになり、金や地位や名誉や欲望に振り回されるリスクを背負い、堕落していくのを止めてくれる指導者や友人がいなければ楽な方に流れてしまい、やがて上に記した人間のように純粋さから離れていってしまうことになる。

 

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