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【ツイッター】リプは共感のみ歓迎される

ここ一週間で、とうとうツイッターを本格的にやりだしてしまった。ツイッターに潜入ルポした結果、ツイッターとは思ったより閉鎖的な空間で、リプは共感のみ歓迎されるということが分かった。

 

ツイッターなんて女子高校生なんかが非生産的なことをつぶやいてキャーキャーやってるだけだろうと完全に舐めていたのだが、それはとんでもない誤解だった。少しずつツイッターという世界を覗いていくと、あらゆるトピックに関するネタやマニアックな情報が、深い考察と圧倒的な表現力で生き生きと人々によってつぶやかれていたのだ。そこには、私の想像をはるかに超えた高度な文明が築かれていた。それは本当にもう一つの世界だった。私は自分の想像力の無さをこれでもかと痛感させられたのだった。

 

誰にでも開放されているように見えるツイッター内のコミュニティだが、完全に出入り自由というわけではなさそうだった。その空間は透明な壁で覆われていて中が見えるものの、出入り口にはしっかりと鍵がかけられているようだった。外から呼びかければ中にいる人は返事をしてくれるが、簡単には入れてくれない。特にコンプレックスや性癖などセンシティブなトピックを扱うコミュニティになると、その傾向が強いようだった。

 

しばらく外から中を眺めていたものの、そんなことも知らなかった私は出入り自由だと勝手に勘違いをし「こんにちは」などと言いながらドアをノックした。しかし彼らがその扉を開けてくれることはなかった。そして彼らは興味本位でやってきた私の言葉には耳を貸さず、おしゃべりを続けたのだった。

 

そのコミュニティの外には、私の他にも中に入りたくてうずうずしているような人たちが何人かいた。門前払いを受けた私は仕方がないのでしばらく立ち見をしていたのだが、突然「FF外から失礼します」などとわけのわからないことを前置きした後に、「一年前からフォローさせてもらっていたのですが初リプ失礼いたします」とさらに長い前置きを追加し、「~さんの考えに私も賛成です」と物々しい前置きはなんだったんだと突っ込みたくなるくらい軽い一球を投じてきた奴がいた。すると「~さんいつもありがとうございます。共感してもらえて嬉しいです」とそのコミュニティの主は返事をし、外にいた人間をコミュニティの中に歓迎した。

 

自由な発信の場という印象の強いツイッターだが、そこには確かに暗黙のルールが存在していた。そのコミュニティをよく見てみると「クソリプしてくるやつはいい加減にしてほしいよね」などといった会話が展開されていた。クソリプとは「クソみたいなリプライ」という意味だ。つまりウンコみたいに価値のない発言ということだ。そして先ほど歓迎された人間が発していた「FF外」というのは「フォローしあっていない状態」ということを意味する。つまり、そのコミュニティに足しげく通い、さらにSNSという一見敷居の低そうなイメージからは想像できないほどの礼儀正しさを持ってその「初リプライ」に臨まなければ、一見さんお断りといった感じで締め出しを食らってしまうということだ。

 

そのような事実は、裏を返せばそれだけそのコミュニティが大切にされているということだ。その聖域を守ろうという強い意志のようなものまで、コミュニティの参加者たちからは感じられた。そこでは、「ほんとそう思います!」「100%共感です!」といったわざわざ言わなくてもいいような発言がこれでもかとずらりと並べられていた。そんなそのコミュニティへの入場券を得ようとしている人たちの「リプ」で溢れていたのだ。

 

私は決してそれが意味のない行為だなどとケチをつけたいわけではない。そのようなリプから推測されるのは、それほど慎重に関係を構築していこうという意思を示せなければ、大切にされているコミュニティには受け入れてもらえないということだ。一見開放的に見えて、実は閉鎖的な面も併せ持つツイッターに存在する、コミュニティの敷居の高さを垣間見たような気がした。自由なSNSといえども、結局はリアルの世界のルールが持ち込まれるのは仕方のないことなのだ。そしてそれは現実社会と同じで、既得権益を持つ人間の暗黙の多数決でルールが作られていく。

 

ツイッターは価値観を共有できる多くの人と出会える一方で、一定確率でたちの悪いユーザーの出現は免れ得ない。それは多くの人が利用する電車には痴漢も一定数乗車しているのと同じ理屈だ。痴漢の被害者を減らすためには女性専用車両などの整備が必要であるだろうし、痴漢されたら勇気を出して声をあげなければならないといった啓発活動が必要なのと一緒で、ツイッターというSNS内のコミュニティといえどそこでのルールが守れない人間は締め出されてしかるべきだし、そのような人間に対するルールは整備されていって当然なのだ。

 

ツイッター利用者の一番求めていることはずばり「共感」だ。意見を交わすことでも、批判をすることでもなく、圧倒的に「共感されて、共感する」ことに意味を見出している。コミュニティによっては「リプは共感するためにある」と言い切っても大袈裟じゃないだろう。軽率にリプで批判をしようものなら「言いたいことがあれば自分でコミュニティを作れば」と追放されてしまうのがオチだ。ましてやそのコミュニティにたまたまフラッと立ち寄って「こんにちは」と言ったところでナンパが無視されるのと同様に多くの人は返事をしてくれない。リプ内容がどんなに的を得ていて、どんなに面白くても、その善悪は受け手の気分に委ねられるからだ。

 

全てのツイッター上のコミュニティがそうだとは言わないが、そのような通りすがりのリプや批判的なリプはほとんどの場合は意味をなさない。批判されて活発な議論をしたいと思っているのはごく一部のユーザーだけだろう。あくまでも欲しいのは「共感」なのだ。「ツイッターは共感するだけの場だから空気読んでよ」と自分なりのルールを持ち利用している人もきっといるだろう。ツイートして誰かに共感されて、誰かのツイートに共感して、「よし今日も一日頑張ろう」といった気分を上げるためのツールとして利用している人も多いはずだ。フラッと訪れて「なんだよせっかく自由なSNSなのにみんなで同じような発言ばかりして馬鹿じゃないの」と言いいながらリプを残しても、綺麗に掃除してある壁に落書きをされたような嫌な気分がするだけで、害にしかならないのだ。

 

ツイッターとは実に奥の深いものである。

 

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