時間がくねくねしてなくてよかった

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手段と目的は混合させないほうが良いという話

プログラミングを学習して4ヶ月が経ち、未経験ながらそこそこ大きな会社にプログラマーとして雇ってもらう直前までこぎつけた。実際には三次面接で落とされたのだが、三次面接を直前にしてほぼやる気は失せていた。そしてなぜそのような気持ちになったのかを考えてみた。プログラミングを学習してきて、就職を目の前にして熱が冷めたのはなぜか。考えていると、手段と目的を混合していたという事実に気が付いた。今日はその話を共有したいと思う。
 
まず、プログラミングを始めたのはリモートで稼ぎたいということだった。初めは月に10万年も稼げれば十分だと思ってワードプレスを覚えようと思い、ワードプレスにはPHPをやった方がいいということでPHPの学習を始めた。どうせやるなら根本からやった方がいいだろうということで本格的に勉強を始めた。さらに深めていくには会社に入った方がいいということで就活を始めた。
 
今冷静に考えてみれば、だんだん当初の目的からかけ離れていってしまっているのがわかる。そして、いざ就活だと蓋を開けてみれば、私が学習したいPHPを学べるところは未経験であまり募集しておらず、Javaという言語を使う受託開発のブラックそうな会社ばかり。しかし、そんな会社すら書類はなかなか通らない。それでも、めげずに書類を送っていると会ってみようと言ってくれる企業がいくつかあり、その中でPHPを学べてかつ企業として上り調子な、これ以上ないほど私の希望にマッチしている企業があった。
 
それが冒頭に触れた企業なのだが、一次面接の時にオフィスを訪れると、大手町駅直結の高層階に位置する東京の夜景が綺麗に見えるガラス張りのオフィスであった。それにまずは圧倒された。そして事もあろうに一次面接では「才能がある」などとエンジニアの方から言われるなど全く予想外の事態となり、翌日には二次面接の連絡が来るという願ってもない話に発展していった。その時に私が嬉しさのあまり舞い上がったのは言うまでもない。
 
しかし、三次面接の直前1時間前くらいに、ビルの1階にあるファミリーマートのイートインコーナーでくるみパンとヨーグルトの昼食を食べている間にふとやる気が失せた。一次面接から10日ほどが経過していた。理想的な会社で、しかもプログラマーとして雇ってもらえるという一歩手前のところで熱が冷めたのだ。そしてそれこそ、自分の正直な気持ちなのだろうという、なぜだかわからない確信に近いものがあった。手に入るのでは、そう思えた途端、きっと全ての不純物は取り払われ、自分の純粋な心と向き合うことができた。アップル創業者のスティーブ・ジョブスは、死ぬことがわかっている人間は周囲からの期待、プライド、失敗、恥といったものを排除して自分の生きる道を決断できると言ったが、私は死ぬことを覚悟したわけではないが、きっとそれに近い心境に到れた。立派な会社に勤めたいと思ってしまったことは、周囲からの期待、プライド、失敗、恥を恐れていたことの裏返しなのだ。
 
リモートで10万円を稼げるようになれればいいやと始めたにも関わらず、それに到るまでの手段のレイヤーが多すぎて、いつの間にか当初の目的から遠ざかっていて、とんでもない遠回りをしていることに気がついた。10万円を稼ぐためだったのに、いつの間にか立派な会社のサラリーマンになろうとしていた。危うく自分の人生を生きるための準備で人生が終わってしまうところだった。プログラミングを「せっかくやりだしたのだから」と引きずられて就活を始め、気がつけば立派な会社の三次面接まで進んでいて、社会的地位や安定性などといった自分の純粋な判断を邪魔するものに目がくらんだのだ。大きなおまけが付いてきてしまったために、気がつけば長い階段を登り始めていて、少し登ったのだから続けて登らないと勿体無いという意識に捕らわれ、うっかり間違った階段を登り続けてしまうところだった。そしてそれは後戻りできないかもしれない階段だったはずだ。たった4ヶ月の学習で少しプログラミングが出来るようになったくらいでしがみついていたのだから。そんな立派な会社で3年くらいプログラマーとして働いたりしたら、二度と離れることはできなかったに違いない。もったいなくてしがみつく。人間は弱いのだから。
 
私は途中まで登った階段から、都合よくひょいと飛び降りて行きたいところへ行き、また都合よく同じ場所に戻ってこれると勝手に思っていた。しかしそんなバカな話はないのだと、直前で気がつくことができた。だから願ってもない会社に思えた場所を目の前にして、急に違和感を感じたのだ。
 
つまりそれは、手段と目的をごちゃ混ぜにしていたということに他ならない。もしも三次面接などまで設けられてなく、一次面接あたりで「いつからこれますか」などという風に言われていたら、きっとあまり深く考えずに働くことにしていただろう。そして手段と目的を取り違えていたに違いない。
 
きっと、そうやって流されて気がついたらこういう人生だった、という人は多いはずだし、そんなことを否定するつもりもない。誰だって人生の行程はわからないし、目的も曖昧であるのなら流されることに抵抗などしないだろう。きっと進んでいくうちに、達成すべき壁が出てきて、それを乗り越えようとできることをやって、そして人との関わりなんかも生まれてきて、居心地がよくなったり、やりがいを見出したり、人との絆が生まれたりと、留まる理由はいくつも考えられる。ほとんどみんなそうやって生きているのかもしれない。目の前の大切な仕事、大切な人のために自分ができることを一生懸命やり、次の仕事が生まれる、仕事がもらえる、人からの信頼が増えてくる。抜け出せなくなるという感覚よりもここにいたいと素直に思える。自分がしたかったことなどどこかへいき、夢中で取り組む。それも素晴らしいことのはずだ。
 
でも、私は目が覚めた。目的があり、それを達成したいのならば、手段が必要だ。しかし、自分で選んだはずの手段なのに、他人からどう見られるかという余計な夾雑物が混ざり、誤った判断をしてしまっていた。目的をいつも忘れないように、目的を達成したいという気持ちを常に持てるようにしなければ、他人を気にして判断を誤ってしまうものなのかもしれない。
 
大切なのは手段と目的を明確にすることだ。今回は、手段と目的をごちゃ混ぜにして考えてしまって仕事を選んでいた。つまり、金も稼いでそれなりの経験も得ようと都合のいいことを考えていた。二兎を追えるなら良い。しかし、大事にすべき目的にコミットできなくなる可能性が高くなる。それが例えばアルバイトなどで金を稼ぐだけのような仕事であれば、目的を達成するための明確な手段であると自分で見誤らずに認識できるが、そこに会社員のように高い意識が求められるような仕事になってくると、目的がぶれてきてしまう恐れがある。やりがいなどが中途半端に存在すると、ある程度の充実感も味わうことができるだろうし、「自分はよくやっている」といった風に考えてしまう恐れがある。そうすると、本来はリモートで金を稼いで海外で記事を書くための準備、その手段であるにも関わらず、目的を達成する意欲といったものが薄れていってしまう恐れが発生するのだ。気がついたら人生が終わってしまう、ということにもなりかねない。あーそういえば昔はこんなことしたかったんだよな、と。やはり何よりも怖いのは「自分はやっている」という半端な安心感だ。そんな風になってしまう恐れがあるのなら、アルバイトなどで不安な気持ちを抱えて働いていた方がよっぽどいいだろう。アルバイトが嫌なのは他人の目を気にしているからにすぎない。社会的地位とか、人から見下されるとか、きっとそんなことが嫌なのだ。しかし目的を見失わない手段を選ぶというのが実は本当に賢い選択なのではないかと、今回気が付いた。
 
社会的意義とか、不安とか、人の役にたつとか、次に繋がりそうとか、そういう長期的ビジョンでばかり物事を判断すると、純粋な好奇心や好きな気持ちから遠ざかってしまう。そのような不純物があると間違った判断になるのだ。そしてそれになかなか気がつくことができない。純粋な気持ちから来る好奇心や自分のやりたいことなどを不純物なしに捉えられる人のほうが少ない。なぜなら、純粋な好奇心や興味はだいたい社会的意義も人の役にも何にもならないものだからだ。雪男を探したり、怪獣を探したり、山を登ったり、北極を歩いたり、そんなものに社会的意義などといったものは存在しない。それが純粋な好奇心や興味だ。あわよくばスキルが身につくかもとか、人に自慢できるかもしれないとか、意義のあることだとか、そんな不純物は混ざっていない。人からしたらバカなことでもなんでもいいから、不純物を取り除いて、行ってみたいことや達成してみたいことを決める。そしてその準備をする。汎用性など求めてはならない。何にでも応用できる技術を習得するのは目的がぶれているから、とりあえずこれをやっておこうとなってしまうものだ。英語を学んでおけば潰しがきくとか、プログラミングをやっておけば役にたつかもしれないとか、手に職をつけておこうとか、とりあえず身につけておけば得をしそうだとか。そんな汎用性や拡張性を人は求めがちだ。しかしそこに落とし穴がある。他には応用できないものでも、自分で身に着ける必要があると明確に思えているかどうかが大事なのだ。自分がやってみたいことを決める。すると準備が必要になる。その必要になったことを習得すれば良い。その目的を達成するのに必要なことだけやる。練習する。勉強する。何かの役にたつかも、といった風に何かをやらない。
 
手段と目的は明確に分けるべきなのだ。