時間がくねくねしてなくてよかった

答えは人それぞれですが、何かを考えるきっかけになるようなブログを目指してます

コンテンツという疑似体験が人にもたらすもの

昔は人は食べていくのに必死で将来の夢とかやりたいことなどなく、ひたすら生きていくために労働していた。生きる目的など考える暇もなく生きるために必死だった。生活に必要な物のために働いていた人がほとんどだった。豊かな現代では生活に不必要な物のために働く人が増えた。生活に必要な物は高度に大量生産され人の働く余地は減ってきている。しかし人は価値を生み出したい。自分が生きている意味を見出したい。だから人にとってマイナスに作用しようとも、新しいコンテンツを生み出そうと必死になる。そしてそんなコンテンツは、人にとって大きなお世話であったりするものも多い。

 

作るもの、売るものが無くなってきて、人の体験を疑似体験できるコンテンツが作られるようになってきた。パソコンやスマホの中で疑似体験できるため、実際に行動せずとも良いと考える人も増えてきているはずだろう。それはネットが発達し、引きこもりが増えていることからも確かであるはずだ。私はそんなコンテンツは余計なお世話でしかないと思う。グーグルアースなどを使えば世界中をくまなく見ることができるが、「行ってみたいなあ」という気持ちにさせておくだけならいいのに、「こういう風になっているのだな」と納得して満足できてしまうくらいに精度が高くなってくると、実際に足を運ばなくても満足させられてしまうからだ。そのようなサービスが進化していった先には、脳内だけであらゆることが体験できてしまうような世の中になってもおかしくないのであり、そうなってしまってはもはや生きている意味などあるのかと感じてしまう。

 

便利なものがたくさん開発されて、人生にゆとりが生まれやすくなった。そのゆとり時間の中で疑似体験という名のコンテンツを消費するようになり、人生からリアルさが薄れていっている。通勤時間や帰宅後の自由時間でコンテンツを消費しまくっている人は多いはずだ。では仕事で何か生産的なことをしているのかといえば、胸を張って生産的な仕事だと言える人はもしかしたら少ないかもしれない。良き製品は世の中に溢れかえっていて、大量生産は機械により可能になっている。労働者の仕事内容は、それをいかにうまく売り捌くかということにシフトしていかざるを得ない。だが実はAさんが売ってもBさんが売ってもそんなに大した違いはない。しかしその些細な差を競い合うことでしか仕事をしていると実感できない。労働力に見合わないわずかな価値だ。さほど差のないものをいかに売るかに尽力されているのだから。そしてそれに必要なのがコミュニケーション能力だ。近年よく耳にするワードだが、社会人として求められる能力のトップに食い込むといってもいいだろう。それが客を奪い合うために必要な能力であるからだ。コミュニケーションという行為の先には、その人を個人的に好きになるという結果が待っている。個人的に好まれるから、それほど大きく違いのない製品でもAさんから買うがBさんからは買わないという差が生まれる。

 

生活に必要な製品はいかにライバルを出しぬき似たような製品を売るかにかかっていて、生活に必要ではない娯楽=コンテンツはいかに人に疑似体験をさせるかが競われている。人にとってあらかた必要で便利なものは開発され尽くされてしまったので、不必要なことばかりに汗をかくことを余儀なくされている。しかし新しい価値(のようなもの)を生み出していかないと経済は回らないので、止まることはない。今の世の中で本当に価値のあるものを生み出していくのは本当に難しい。

 

意味・意義から入ると何も進めることはできない。意味・意義などない行為の方が人に感動や刺激を与えることは多いように思う。例えばスポーツ。バットを降ってボールを飛ばしたり、ボクシンググローブをつけて人を殴ることに意味・意義などは存在しない。しかし、意味・意義のないことにがむしゃらに取り組んでいる様子や、人間としての進歩が見られた時、人は感動する。意味・意義があるから素晴らしいと感じるよりは、がむしゃらに取り組む姿勢に人は感動する。まっすぐに打ち込むことに人は感銘を受ける。自分の行為に疑いを持たずに突き進む姿が尊いのだ。甲子園やボクシングなどがむしゃらに打ち込む姿を見ていると何か人に希望のようなものを見いだすことができる。意味もわからずに嬉しくなる。意味・意義のあることをやろうと頭で考えていても行動には移せない。自分の運命を受け入れて、意味・意義など考えずにがむしゃらに取り組んだ先に、他の誰かにとって価値のあるものになる可能性はある。盲目になって邁進することが大切なのかもしれない。