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沢木耕太郎の「檀」を読んだ

沢木耕太郎の「檀」を読んだ。「檀」は作家の檀一雄の妻であるヨソ子の話を元にして書かれたノンフィクションで、ヨソ子の一人称の語りとして書かれている。作家の檀一雄とは「最後の無頼派」とも言われた作家で、死ぬまで放埓な生き方を貫いた人だった。「火宅の人」という作品が代表作で、それは檀一雄とその愛人についての話を書いたものであったが、そんな作品が代表作でそれで家族を食わしていたのだからまさに放埒としか言いようがない。そして「火宅の人」は連載されながら20年にも及ぶ歳月をかけて亡くなる間際に完成された作品でもある。その「火宅の人」に登場する愛人との関係に苦しんでいた妻のヨソ子の話がこの「檀」の中心的な話となっている。その妻の苦しみに入り込んで記憶を呼び起こさせて書かれた作品が「檀」なのである。

 

言われなければヨソ子が自ら書いていると思ってしまうほどの仕上がりとなっている。1週間に一度、ヨソ子の元を訪れて一年以上かけて書いたと言われているが、沢木耕太郎という人物の人柄があって初めて成せる手法のノンフィクションと言える。根気よく通い詰めるというだけでも大変な作業であるが、多くを語らせる聞き手になる能力があるのだなと、本を読んでいて感じた。ヨソ子自身も忘れていたような話を、きっと的確な質問と誠実さで引っ張り出してきたのだろう。ヨソ子の信頼を獲得する人柄や能力と、それに伴って発生する絶対的な自信がなければヨソ子の一人称で物語を進めておくことなどできはしないだろう。断片的に浮かび上がってきた記憶の一つ一つを、丁寧に丁寧につなげていき物語としていったに違いない。他人の人生だからこそ、そして当然ノンフィクションだからこそ、間違うことはできない。根気と誠実さの結晶のような作品である。

 

この本を読んでいると檀一雄が浮かびあがってくる。本人に取材するのではなく、一番近い存在であったヨソ子に話を聞いて、一人称で語っているからこそ、本人が語るよりもよりリアルな檀一雄が浮かび上がるのかもしれない。他人の人生を取材して、その人の生き様を世の中に発表する。そのような取材があり初めてその人物が世の中に認知される。このような人物がいたのだと知ることができる。そして自分で自分の人生を語ろうともしないような人に迫ることで、よりリアルな他人の人生を覗き見ることができるのがノンフィクションの魅力の一つであるように思う。そのような他人の人生を丹念に取材したノンフィクションで、かつ取材対象者に一人称で語らせることで、語らせることができるだけの濃厚な時間を過ごすことができたことで、この作品の価値は他と一線を画するように思える。語られるべき事実を世の中に出すことがノンフィクション作家の仕事であるように思うが、そのノンフィクション作家としての仕事を完璧にやってのける沢木耕太郎の代表する一冊だ。