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フェルマーの最終定理【ノンフィクション本】

『フェルマーの最終定理』を読んだ。フェルマーの最終定理とは、1601年に生誕したフランスの数学者ピエール・ド・フェルマーが証明したと言っている定理のことで、以下のようなものになる。

 

3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (xyz) は存在しない

 

素人でも問題の意味が理解できるほど簡潔である。フェルマーは証明したと自ら言ってるが、人を挑発するようにその証明を残さずに死んでいった。

その後、数々の数学者が挑戦しては失敗していった。見た目の簡潔さからは想像もつかないくらい難解な問題であったのだ。1995年にアンドリュー・ワイルズというイギリスの数学者が証明に成功するまで360年もの間誰にも解かれていなかった。

 

この本はそのアンドリュー・ワイルズがフェルマーの最終定理を証明を成功させていく話だけではなく、数々の数学者が少しずつ証明に近づきは敗退していった話なども丁寧に取材され書かれている。

また数学の歴史を古代数学者にまで遡り、現代までの数学の歴史を追うことができる。

著者はインド系イギリス人のサイモンシンという人物で、1996年にイギリスBBCのドキュメンタリー番組でアンドリュー・ワイルズを取材。大ヒットとなり、追加取材を経てその翌年に本を出版した。

 

  

フェルマーの最終定理を読んで数学者は凄いと思った

純粋に数学のロマンを追体験できるだけでなく、様々な引用を用いて数学と結びつけるなど数学の面白さを素人が読んでも理解できるように読みやすくかつ深い内容となっている。

これほどのノンフィクションはなかなか出会うことができないくらいで、2019年に読んだものではピカイチであった。以下、本の内容を適当に抜粋しながらこの本の面白さを少しでも紹介できればと考えている。

 

数学者と話をしていて驚かされたのは、彼らの話す内容の恐ろしく正確なことだった。質問をしても即座に答えが返ってくることはなく、彼らの頭の中で答えの構造が完全に出来上がるまで待たされることもしばしばだった。だが、彼らがいったん口を開けば、明晰で考え抜かれた、これ以上望めないほどの答えをくれるのだ。

 

著者のサイモンシンが数学者をの取材中に感じたことをこのように記述していた。数学者の人格がよく現れていて面白い。日常生活においてもこれは見習いたいと反省させられた。また以下のような小話も載っていて面白い。

 

天文学者と物理学者と数学者(とされている)がスコットランドで休暇を過ごしていたときのこと、列車の窓からふと原っぱを眺めると、一頭の黒い羊が目にとまった。天文学者がこう言った。「これはおもしろい。スコットランドの羊は黒いのだ」物理学者がこう応じた。「何を言うか。スコットランドの羊のなかには黒いものがいるということじゃないか」数学者は天を仰ぐと、歌うようにこう言った。「スコットランドには少なくとも一つの原っぱが存在し、その原っぱには少なくとも一頭の羊が含まれ、その羊の少なくとも一方の面は黒いということさ」

 

天文学者が低く見積もられているのは天動説や地動説の話からなのかもしれない。天動説、つまり地球が世界の中心で他の太陽など星が地球の周りを回っていると本当に信じられていたのだ。これで間違いないと天文学者たちは長い間考えていたくらいだから、確かに数学者の正確性とはかけ離れているのかもしれない。

そして物理学者。物理は実験でしか試しようがない。実験をして出てきた事実が事実で、「そういうものだ」ということしかできない。数学のように証明されるのではなく。

しかし数学は一度証明されてしまえば、それは永遠に変わることのない真実になる。誰がどう見ても正しい真実になり得るのが数学の証明なのである。

 

フェルマーの最終定理を解くのに意味は必要ない

「直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗に等しい」という定理で有名のピタゴラスの話も盛り込まれている。

ピタゴラスはピロソポス(知恵を愛する人)という言葉を作り出したが、オリュンピア競技祭(古代オリンピック)を見に行った際に、その言葉の意味することを尋ねられ、以下のように答えたという。

人生とは国民的祝典のようなものかもしれません。ある者は賞金を目当てに、またある者は名声と栄誉を得ようとしてここに集まってきます。しかし、ここで起こること全てを観察し、理解しようとして来る者は多くありません。

同じことが人生についても言えましょう。ある者は富への愛によって動かされ、ある者は権力と支配を欲する情熱に盲目的に引きずられています。しかしもっとも優れた人間は、人生の意味と目的とを見出すことに専心するのです。

 

金や権力を欲して行動する人間よりも、人生の意味を見いだすことに熱中する方が尊いと言っているのだが、これは一見、哲学者のような人物のことのように解釈できる。しかしやはりピタゴラスがいうのだから数学者のことを指しているのではないかと考えると、そうとも解釈できる気がしてくる。

例えばピタゴラスの定理は「a2+b2=c2」だが、これは直角三角形ならば常に成り立つ。この不思議で確かなことが少ないこの世の中において絶対的な真実と断言することができる。つまり言い換えれば、数学を追求していくということは世の中の真実を増やしていくことだと言い換えることもできるだろう。

誰が考えても普遍的な意味を見いだすことのできないこの世の中において、その普遍的真実に少しでも近づく行為が数学から真実を増やしていくことなのかもしれない。そのような意味として捉えることもできる。

 

そのように考えていて、数学と探検は非常に似ていると思った。数学で数字と格闘することそれ自体には意味は無い。しかし何かの発見に繋がる。

探検も意味の無い行為だ。なぜなら、未知であり、そのさきが分からないところに向かう行為が探検なのであって、分からない所に向かっているのだから、意味など考えずにやっているのだ。そのさきに何があるか知っていて、何かの目的があって向かうのならばその行為には意味がある。

しかし数学も先に何があるかは分からない。暗闇を手探りで進んでいくという行為であり、それは探検と似ていると言ってもイメージできるはずだ。以下のような引用もあった。

 

数学とは、整備されたハイウェーを着々と進むことではない。それは未開の地を旅することなのだ。探検家は往往にして道に迷うだろう。歴史家にとって、厳密性は地図ができたしるしとなろう。だが地図ができるころには、真の探検家はどこか別の場所に行ってしまっているのである。

W・S・アングラン

 

また古代エジプトの数学者であるエウクレイデスに関する引用文があった。

エウクレイデスが生まれたのは紀元前330年ごろのこととされている。彼はピュタゴラスと同じく、数学的心理の追究そのものに価値をみとめ、自分の仕事を応用することなどは考えていなかった。あるとき一人の生徒が、「いま教えていただいた数学はどんなことに使えるのですか」とエウクレイデスに質問した。授業が終わると、エウクレイデスは従者に向き直ってこう言った。「あの少年に小銭を与えなさい。彼は学んだことから利を得たいようだからね」そしてその生徒は放校となった。

 

「利につながればそれはそれでラッキーじゃん」と現代であれば思っても良さそうだが、利を考えずに純粋に真理を追求する行為が美徳とされていた興味深いエピソードだ。

今でこそ、人知が及ぶ世の中の多くのことは追求され尽くしほとんど多くのことが解明されているので、純粋に何かを追求して生活していける人は世の中のほんの一握りで、大抵の人は利を追求することでお金というわかりやすい数値を得ることができ自分の価値を実感できる。

世の中の未知が多く存在していた時代は数学者や探検家の活躍する場所が多くあったことだろう。何か意味があって、そのために必要なことをするのではなく、そもそも数学や探検という純粋な行為の先には何があるのか、という世界だったのだ。

 

以下の著者の見解。

数学の問題を解きたいという欲望に火をつけるのは、たいていは好奇心である。そして問題を解いたことへのご褒美は、パズルを解いたときのような、他愛のない、しかし大きな満足感なのだ。

数学者を駆り立てているのは応用の魅力ではなく発見の喜びなのだ。発見するためには未知を進まなければならない。

探検家が発見するのも他愛のないものが多いのかもしれないが、発見するという行為自体がやめられないのであり、出てきたものの大小はただのおまけに過ぎないのかもしれない。

 

数学は自然と結びついている

次は数学が自然と結びついているという面白い話を紹介したい。ピラゴラスは数学と自然現象との繋がりを示したことで知られているが、やがて科学者は数学と自然現象との規則性を探すようになった。

そして曲がった川の長さと水源から河口までの直線距離の比が平均すると3よりも少し大きい値になることがわかった。ほぼ3.14で円周率に近いというのだ。そのことが以下のように説明されている。

アインシュタインが最初に言い出したことだが、川はつねに曲がろうとする傾向をもっている。というのは、少しでもカーブがあれば、そのカーブの外側では流れが速くなって侵食が進み、カーブはますます急になる。そしてカーブが急になれば、外側の流れはますます速くなる。こうして侵食が進めば進むほど、川はどんどん曲がるという循環が起こる。しかしその一方で、カオスを切り詰めようとする自然のプロセスも存在する。カーブが急になるということは、元の流れに対して折り返すことだから、そこにバイパスができやすくなる。バイパスができれば川はまっすぐになり、湾曲した部分は三日月湖となって川のわきに残される。

このような神秘的な発見がある数学ならば数学者が人生をかけて没頭してしまう意味も理解できる。

数学を追求していった結果で3.14というなんか中途半端な数字が円周率という円の直径の長さに倒する円周の比であることがわかり、その比が川という自然がただ偶然に生み出したものだと思っていたものの直線距離と蛇行距離の比とほぼ一致するというのだから。

まさに数学を追求することは未知を解明することに他ならなかったのだ。なんの意味もなさそうな数字遊びにも見えるものがある日突然に自然と密接に関わっていることなんかが発見できればどれほど楽しいだろうか。

 

確率の面白い話

数学といえば確率の話も忘れてはならない。確率は比較的誰にでも短な数学であると言えるだろう。確率はまさに数学の神秘だ。

そんな確率について面白い話が紹介されていた。それは「審判を含めたサッカー選手23人の中で同じ誕生日である人が見つかる確率はどのくらいか」というものだった。

普通に考えて誕生日は365通りある。たったの23人しかいないのであれば、同じ誕生日の人がいる確率は結構低そうだ。そのように考えるのが普通である。だいたい体感で確率はわかるものだ。1割にも満たないだろうな。そのように多くの人は考えるかもしれない。

しかし実際に計算すると5割を超えるのだという。たったの23人なのに50%以上の確率で同じ誕生日の人が見つかるのだ。体感で確率は計れないという良い例だ。ギャンブルにのめり込んでいる人は特に気をつけたいところである。しっかりと確率を計算すれば、全てのギャンブルは元締めがいかに有利になっているかがわかるはずだ。

 

素数の神秘

また、素数の話も実にユニークだった。

素数とは、1より大きな自然数で、1と自分自身でしか割り切れない数字のことである。たとえば11も素数である。9は3でも割り切れるので素数ではない。

そんな素数とセミのライフサイクルを関連付けた話が面白いので紹介したい。セミは長い間土の中で幼虫として長い間生活をして、成虫になりすぐに死んでしまうという話はよく知られている。

そのセミの種類で、ジュウシチネンゼミやジュウサンネンゼミというセミが紹介されていた。これらのセミは名前の通り、それぞれ17年間、13年間を地中で生活をするのだという。

この17、13という数字は素数だ。その地中にいる年数が素数になっているのが、一定のライフサイクルで生まれる寄生虫を避けるためではないかという話だった。

これらのセミには寄生虫は発見されていないというが、元々はいたと仮定して、進化の過程で避けるためにライフサイクルを変化させていったのではないかということだ。

以前は例えば1年のライフサイクルでセミが地上に出ていたとして、寄生虫も同じだとすればセミにとっては絶滅の危機だからだ。

伸ばしていった結果が、17年という素数で、これならば例え寄生虫の周期が1年でも17年に一回しか出会わないから、そのセミに寄生する寄生虫を絶滅に追い込むことができるだろう。

セミは素数なんて知らないが、進化の過程で素数にすることで厄介な寄生虫と出会う確率が減るというのを会得していったに違いない。

  

数学から導き出されるゲーム理論が興味深い

フォンノイマンというハンガリー出身の数学者の話も興味深い。

彼は「ゲーム理論」なる言葉を生み出した。チェスやポーカーを研究し、人間がいかにゲームを遂行するかを数学的に記述した。

彼はのちに冷戦期の戦略開発のためにアメリカに雇われることになる。ゲーム理論をどのように戦略に応用するか説明するために「トルエル」という例を取り上げたのだという。

 

トルエルとは、三人で行う決闘のようなものである。ある朝、クロ氏とグレー氏とシロ氏は、もめごとを解決するためにピストルで決闘をすることにした。決闘は一人だけが生き残るまで続けることになった。クロ氏はピストルが下手だったので、平均して三回に一回しか当たらない。グレー氏はそれよりもいくらかましで、三回に二回は当たる。シロ氏はピストルの名手で、百発百中だった。公正を期するため、クロ氏が最初に発砲し、次にグレー氏(彼がまだ生きていれば)、最後にシロ氏(まだ生きていれば)という順番で、一人が生き残るまで続けることにした。問題はこうである。「クロ氏ははじめにどこを狙うべきだろうか」

 

是非回答を考えて見て欲しい。以下に文字を薄く小さくして回答を書くので見たくない人は目をそらして次に読み進んで欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

回答は「わざと外す」

なぜならば、外すことで次に撃つのはグレー氏となるが、ピストルが下手なクロ氏を狙うよりも名手であるシロ氏を狙うことになるだろう。当たればシロ氏が死に、次にピストルを撃てるのはクロ氏になり三分の一の確率で生き残れる。

グレー氏が外した場合はシロ氏が確実にやはり脅威であるグレー氏を殺すことになるので、やはり次に撃つのはクロ氏ということになるので同様に三分の一で生き残れる。

もしも、クロ氏が狙いを定めて三分の一が成功しシロ氏を殺していたのなら、三分の二の確率でグレー氏に殺される。

生き残れる確率は三分の二を乗り越えて三分の一を当てなければならないので九分の一となり、三分の一より生き残れる確率がぐんと減ってしまうのである。

 

ピエール・ド・フェルマーという人物

この本の本筋であるフェルマーに関する話にも少し触れておきたい。

フェルマーは裁判所の仕事をこなす公務員で数学者ではなかった。300年以上も誰も証明することのできなかった定理を発見した人物はアマチュアの数学者だったのだ。

時代背景はこうだ。フェルマーが生きていた当時、17世紀のフランスでは裁判官は他者との交流を控えるようにしなければならない風潮があったという。不正を防ぐためだ。裁判官として仕事の合間に趣味で数学に没頭していたのがフェルマーだった。

数学者は当時から発見したことを論文に書くということをして世に発表していたが、フェルマーは数学が解けるという純粋な喜びだけで十分だったのだという。純粋な好奇心のみで数学を楽しんでいたのだ。

 

さてここでいま一度フェルマーの最終定理を確認しておきたい。

 

3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (xyz) は存在しない

フェルマーはこの定理を発見したということだけ周りに告げて、証明は残さずに死んでいったのだ。彼の数学の実力は知られていたので、フェルマーがその定理を正しく証明したと信じられる根拠はあった。

この定理を証明するために多くの数学者が人生を捧げてきた。フェルマーの最終定理を証明するために時間を捧げることで、新しい発見がいくつもあったのだという。そのような数学の発見が積み重なり(そこには日本人数学者も大きく貢献したのだが)、それらを全てつなぎ合わせて1995年にイギリスの数学者であるアンドリュー・ワイルズが証明を完成させたのだ。

 

フェルマーの最終定理を解いた人物

アンドリュー・ワイルズは少年時代にフェルマーの最終定理に出会うのだが、当時を振り返った彼の言葉が引用されていた。 

まず私は、フェルマーの数学の知識は私とそれほど違わないだろうと考えた。

300年以上もあらゆる数学者が挑戦して解くことのできなかった問題だ。それが「解けるかもしれない」と思いチャレンジしようと子供の頃に思ったのだという。

彼のように「挑戦してみよう」と思える人は限りなく少なかったに違いない。年げつが経てばたつほどだ。30年後と300年後では「できるかもしれない」と思える気持ちは減っていくに決まっているからだ。「できるわけがない」と考えるのが普通だろう。300年前の数学者、などと聞くともう何かの遺伝的奇跡で生まれてきた天才で敵うわけがないとはなから諦めるのが普通だ。

フェルマーの最終定理を解くために一番必要だった要素は、新しいことをスポンジのように吸収できる子供の頃から「解けるかもしれない」と歩みを始められることなのかもしれない。

これは「宇宙飛行士になれるかもしれない」と思うこととはレベルが違う。宇宙飛行士はなるための道筋がはっきりと示されていて、努力をすれば叶う可能性が開ける。

フェルマーの最終定理は歩み始めたら最後、「解けないかもしれない」問題に生涯を捧げていくことになるからだ。先は暗闇で全く見えないところを進んでいかなければならないのだから。

ソクラテスを超えられると本気で考えている哲学者などきっと現代には存在しないだろうが、アンドリューワイルズはフェルマーの定理のフェルマーを超えられると信じることが出来たのだ。

 

最後に本文中からアンドリュー・ワイルズの発言を少しだけ引用したい。

純粋数学者というのは、手強い問題が、そう、未解決の問題が大好きなのです。数学をやっているとすばらしい感覚を味わいます。はじめのうちは何がなんだかわからなくて、取りつく島もありません。ところがいざ問題が解けてみると、なんて美しいのだろうと信じられない気持ちになる。いっさいがエレガントに調和しているのです。

 

最初の真っ暗な部屋に入ると、そこは暗いのです。真っ暗な部屋です。それでも家具にぶつかりながら手探りしているうちに、少しずつ家具の配置がわかってきます。そうして半年ほど経ったころ、電灯のスイッチが見つかるのです。電灯をつけると、突然に部屋のようすがわかる。自分がそれまでにどんな場所にいたかがはっきりとわかるのです。そうなったら次の部屋に移って、また半年を闇の中で過ごします。

 

大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。考えをはっきりさせようと紙に書く人もいますが、それは必ずしも必要ではありません。とくに、袋小路に入り込んでしまったり、未解決の問題にぶつかったりしたときには、定石になったような考え方は何の役にも立たないのです。新しいアイデアにたどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけを考えるのです。それから集中を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。そのとき潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです。

 

証明を完成させるために彼が選んだ方法は「孤独」だった。

目標を成し遂げるためには一人でとことん問題に向き合う必要があると考えた。孤独になるための習慣を確立させていった。 結果として日の目を見ることができた。

しかし彼以外のフェルマーの最終定理に挑戦した数学者は日の目を見ることなくこの世を去っていった。

アンドリュー・ワイルズが証明を完成させたことで世の中が劇的に変化したわけでも、何かのテクノロジーの発展にすぐに結びついたわけでもない。意味があるかわからない、意味など全くないかもしれない、そんなことに人生を捧げてきた人たちがいる。

私は世の中に意味などないと思っているし、意味を探すことも無意味だと思っている。しかし何かの没頭できる行為の先に、何か意味を自分なりに発見できるということはあるはずだ。きっと過去の数学者たちも証明の答えは探せなかったが、それだけ没頭できていたのなら、自分の生きた意味は発見できていたに違いない。