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ハーメルンの笛吹き男を読んだ

ハーメルンの笛吹き男を読んだ。

 

ハーメルンの笛吹き男とは、13世紀のドイツの小さな町ハーメルンに現れた、130人もの子供を連れ去ったと語り継がれる人物で、この本は、そのおとぎ話のような話を日本の歴史学者が事実を明らかにしようと挑んだ作品である。

 

ハーメルンの笛吹き男の事実に関心がいくというよりも(もちろんとても興味深いのだが)著者の阿部謹也氏のノンフィクション作品として大変興味深く読める本となっている。何よりも丁寧に事実を追求していく態度に本当に好感が持てる。今ほど情報の精査が必要な時代はないと思っているが、事実を伝える行為は本当に慎重になされなければならないと、この本を読むと改めて実感する。

 

SNSでデマが飛び交ったり、信憑性の低い陰謀論などを信じてしまう人が多い世の中だが、この本を読むと、いかに不確かな話を事実と決定するのが難しいのかがわかる。著者は徹底的に客観性を持って事実に迫っている。SNSやインターネットで不確かな情報が溢れる現代において必読の書とも言える読み物だと言いたい。

 

この本の「はじめに」の部分で書かれていた箇所を紹介したい。1971年に、著者が西ドイツのゲッチンゲン市の州立図書館で古文書などの分析に没頭していたときに、ハーメルンの町で130人もの子供たちが行方不明になった歴史的事実を発見したときの記述だ。

 

以下の引用は全て

『ハーメルンの笛吹き男』ちくま文庫

から

 

(前略)ひとたび最初の興奮を自分のなかで整理し、秩序だてて自分の関心を追求しようとすると(後略)

 

このように書いている。興奮を整理するという作業もあまりしたことがないし、秩序だてて自分の関心を追求しようとしたこともない私は、この一文だけで「この本を読んでみたい」と完全に惹きつけられてしまった。

 

さらに著者は本編でも以下のように書いている。

 

伝説sageとはおとぎ話・メルヘンと違って本来何らかの歴史的事実を核として形成され、変容していくものだからであり(後略)

 

伝説となっているこの話にも、何らかの事実が隠されていると極めて客観的に考察している。

 

さらに徹底的に事実を追求したことをうかがわせる文章として、以下を引用したい。

 

一五〇〇年以降の史料は全て二次史料であり(後略)

 

13世紀、つまり約700年も前の話の事実を追求していて、史料もあまり残されていないというのに、一次情報にこだわり事実の解明に取り組んでいる。現代でSNSの内容を引用して大手マスコミなども記事を書いたりテレビ報道したりしていることを考えれば、いかに事実を丁寧に追求することが尊いことかがわかる。

 

著者は事実の考察に参考になると思われる一次情報に関して、以下のように書いている。

 

(前略)それらの記録がいずれも何の飾り気もない事実の報告であり、何ら超自然的な要素を含んでいない(後略)

 

装飾されていないからこそ事実かもしれない、と冷静かつ柔軟に情報の精査をしている点にも脱帽する。

 

著者はこれまでにハーメルンの笛吹き男について研究された史料はおそらくほとんど全て目を通している。研究史を外観せずに自分が語ることは許されないとまで記述している。それらの史料のなかから、検討に値するものを選び出し、分析しようとするが、分析するにはハーメルンの町で起こった当時の世界と社会についての知識が不可欠であると述べている。

 

何かの事実を解き明かそうと思ったら、その出来事の周辺環境に関する知識がなければ出来ないということだ。私が新聞記者をやっているときに尊敬する先輩から教わったことで印象深かったのは「ニュースとは何か」ということだが、ニュースとは文字通り新しいことが報道されることをいうのだと、それだけが頭にあった。しかしその先輩がいうにはニュースとは変化を知らせることだという。つまり過去と比べて何が変化したのかがわかって初めてニュースとして記事が書けるということ。追求しようとしている事実や出来事に関して研究されたり記述された記事があるのなら、できる限り目を通すのが報道するもののマナーともいうべきことなのだ。『ハーメルンの笛吹き男』はそのお手本ともいうべき本だと言える。

 

著者が明らかにしようとした話は、庶民に関わる話だ。だから文献などもそれほど残されていない。古い時代に残される文献の多くは王族や貴族のものが多いというのもこの本を読んで理解したことだが、以下のように著者も書いている。

 

死後に財産や伝記を残すのはいつの時代にも権力ある者であり、身ひとつをようやく支えて短い人生を、しかしかけがえのないはずの人生を送った貧民は、ある日倒れて貧民院へ送られ、名も知れぬまま葬られてしまう。

 

また以下のようにも書いている。

 

われわれの目を開いてくれるのはこうした著名な歴史叙述者ではなく、無名の修道士たちの書き遺した地域の年代記なのである。彼らは身のまわりに起こった出来事を、自然現象も含めて詳しく書き記している。(中略)彼らの叙述のほとんどは同時代の目撃者として書かれ、その限りでかなり信用のおけるものなのである。

 

そして、一つの事実を追求することで、新たな事実や発見が浮かび上がってくるということもこの本を読んでいるとわかる。それは例えば中世ヨーロッパでは墓掘りよりも乞食の方が社会的地位が高かったということだったりする。乞食として人から金をもらうにはそこに工夫が必要だったというのがその理由ということだ。国や時代が変われば同じような解釈にはならないだろう。だからこそその時代を知ることがその時代で起きた事実を解明することに必要なのだということもわかる。また、ローマ帝国の没落から初期中世まで、ヨーロッパにおいては俳優やミュージシャンは土地も持てず放浪し、異教的文化を人々にもたらす者としてキリスト教の普及の障害となっていたことなどもこの本には書かれている。

 

 

少し話が逸れたが、この本を読んでいるといかに事実を簡単に語ることが出来ないのかを痛感する。SNSやインターネットに溢れるデマや不確かな情報に惑わされることなく、確実に情報を見極めていくことが現代には必要だと思う。ぜひこの本を手にとって読んで欲しい。中世ヨーロッパの事実に関して知識を深めることもできるが、それ以上にいかに誠実な態度で情報を提供していくべきかを学ぶことができる。