時間がくねくねしてなくてよかった

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一貫性について

 

塾で講師として働いた期間と教室長として働いた間に名前に「矢」のつく生徒に2人出会ったが、二人とも非常に個性的で飛び抜けて才能を感じる

 

私が「矢」という字に抱くイメージは、「力つきるまでまっすぐに飛んでいく」というものだが、そんなイメージからは少し離れて二人とも何気に興味がコロコロと変わっているのだが、でもそれは他人だけが表面的に見ていただけのことかも知れなくて、世界に存在する事象は彼らにとって彼らの意志を貫くための材料でしかなく、彼らの中ではコロコロ変わってなどなく一貫性があったのだと最近は思えてきた

 

溢れ出る一貫性、目に見えすぎる一貫性というものを疑うべきなのかと思った。「一貫性」と呼ばれる人間の強い尊敬されるべき意志のようなものは、所詮他人を気にしただけの鎧でしかないのかも知れない。

 

「凡人であるお前はあれこれ手を出すなんてもってのほかで食いっぱぐれないためにはまっすぐに進んで人様のお役にたつのだ」、といったような古い腐りかけの聞きたくもない価値観に心が支配され、「一貫性」という呪いに支配されている気がしてならない

 

もしくは人生は辛く苦しいものなのだとどこかの誰かにもしくは遺伝子的に植えつけられ、辛く苦しいものにはできるだけ目をつむって生きていったほうがいいという宗教的なまた猪突"盲信"的な考え方で、変に悟っていたりするのかも知れない

 

いずれにせよ、「決めたから貫く」という日本で確固たる地位を占めている最上級と形容しても良いかも知れない言葉には、いまだにほぼ100%くらいで納得できていない

 

 

一貫性は意識するとろくなものではなく、無意識的に存在するといいものなのかも知れない