時間がくねくねしてなくてよかった

答えは人それぞれですが、何かを考えるきっかけになるようなブログを目指してます

世間について

現代は自分らしく生きるのが難しい世の中だと言える。

 

ニュースは積極的に避けても自分の耳に届くし、SNSではどこの誰かも知らない人間の発信した記事を目にしてしまう。

 

世間の力は圧倒的である。それに争うには『徒然草』を著した吉田兼好のように隠居するしかないのかもしれない。吉田兼好は世間に嫌気がさし出家したが、出家先でもその仏教コミュニティーで世間が展開されていることに気づき辟易し、最終的に人里離れ隠居生活を送った。そして世間と離れることで世間を本当の意味で眺めることができた。そのようにして誕生したのが徒然草だ。

 

『ハーメルンの笛吹き男』の著者である阿部謹也の著書『「世間」とは何か』を読んで、日本における世間の強大さを改めて思い知った。今ではさらにパワーアップしていて、芸能人やら有名人が何か不祥事などを起こせば、ネットに存在する世間から非難の嵐を浴びせられる世の中となっている。世間は「世間知らず」という名の武器を振りかざし、いや「世間知らず」という名の網で獲物を確実に追い込んでいく。自分が自分を押し殺して生きているから、自分らしさを出している人を見ると我慢出来ずに批判する。自分らしさを出すことを我慢していない人に我慢がならない。「みんながやっているんだから」とか「普通はこうだよ」とか、とにかく思わずにはいられない。稀に言葉にして本人に直接言うが、最近であればほとんどおおよそはSNSという「はけ口」を通じて発信する。

 

夏目漱石の『坊ちゃん』は阿部謹也いわく世間を描いた作品らしい。坊ちゃんは昔読んだ気がするが全く記憶になかったので改めて読み直してみた。世間は明治も今もそれほど変わらない。世間はとにかく世間に染まらない人間を締め出す傾向があるということが印象としてある。

 

阿部謹也によれば、「society(社会)」と「idividual(個人)」という言葉は明治になって初めてヨーロッパから日本にもたらされたのだという。裏を返せば、それまで日本には「社会」と「個人」という概念がなかったということだ。ヨーロッパの「社会」は「個人」によってつくられる、個人が前提のものだと阿部謹也は言う。日本には世間という概念は昔からあったが、明治前には個人が作る社会という概念はなかったのだ。社会は個人がつくる大きなコミュニティで、世間は自分の身の回りの狭い世界という意味だと紹介されている。

 

日本古来の「世間」が正義なのかヨーロッパからもたらされた「個人」による「社会」が正義なのか分からないが、新しい概念が輸入されたことで二者が衝突しているのは確かだろう。しかし日本で醸成された「世間」がそう簡単にやられるとは到底思えない。日本の「世間」は強大なのだ。