時間がくねくねしてなくてよかった

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自由の意味とは

 

 

自由には絶対的な価値があると信じる人がいる。しかしそれは拘束から解放された時に得られる相対的な価値でしかない。自由そのものを謳歌したいなら組織に拘束された方がいいのであって、だからそれは目的ではなく手段でなければならない。

 

  

自由を謳歌するのはサラリーマン

自由という概念の構成要素は大きく二つに分けられる。一つは拘束からの解放。もう一つは選択肢の増加。今日は拘束からの解放について考察してみたい。

 

胡散臭い言い方だが、自由を手段ではなくあくまでも目的として得たいのなら、むしろ拘束されるべきだ。自由は拘束からの解放であるので、自由を謳歌したいのであれば、拘束される環境が必要だからだ。

 

そのように考えると、ストレス社会に生きるサラリーマンは自由という果実を大いに味わえている。金曜日に仕事を終えて週末を迎えるときの心境こそがまさに、自由を謳歌するということに他ならないからだ。

 

自由そのものを味わいたいからフリーランスになるというのは自由の意味をはき違えている。サラリーマンからフリーランスになれば、一時的には解放感を得られるかもしれないが、拘束される場が無くなった以上は自由そのものを味わえる機会がむしろ減っていくからだ。皮肉にも自由に近づけば近づくほど自由を謳歌することは難しくなる。完全に自由になった状態では解放感は得られないからだ。

 

完全なる自由は耐えがたい

混合しがちだが、仕事の充実感と自由の解放感は別物だ。フリーランスは仕事の充実感を得ることが出来ても、自由の解放感をサラリーマンのようには味わうことはできない。

 

社会学者の大澤真幸は著書『自由という牢獄』の中で以下のように述べている。 

自由の強い肯定から強い否定への急転が生ずるのであれば、こう考えざるをえない。何らかの理由で、自由への絶対的な限界は求められていたのだ、と。つまり、完全に近い自由の可能性が保証されたとき、むしろ、その自由を制限する限界が欲望されたのだ。このことが含意していることは、十分に広い自由な選択の可能性が保証されていく状態が、それ自身、耐えがたい。

(出典:2015年/岩波書店/大澤真幸『自由という牢獄』P27より)

 

完全に近い自由を得ている人間がいるかどうかは分からないが、少なくとも自由に近づけば近づくほど自由としての相対的な価値は低下していく。あれだけ欲しかったはずの自由に価値を見出せなくなる。

 

別に不労所得を得なくてもそんなことは容易に想像できる。私も何度も無職になっているが、誰でも擬似体験はできる。仕事をやめて無職になり、貯金で生活をすれば完全なる自由が一時的にだが手に入る。

 

その無職になった人間は自由を欲しいと思うだろうか。逆だ。完全なる自由は耐えがたい。むしろ拘束されたいとすら思う。拘束されるというのは、社会とのつながりを持っていると実感できる状態だ。自由になればなるほど社会との結びつきが欲しくなる。だから自由そのものを求めてもそんなものはすぐに手放したくなるということだ。

 

また、完全なる自由というのは、誰からも拘束されていない状態だ。「あなたはここにいなければならない」と誰かに拘束されているわけではない。言い方を変えれば「あなたは別にここにいなくていいですよ」ということだ。

 

フリーランスは自由を手段とすべき

強制的にしろ、人は人とつながっていたいと欲する。もしもこの世に一人だけになったとしたら、自由を謳歌できるだろうか。きっと、誰かほかに人がいないか探しに行くだろう。この仮説はフリーランス同士がコミュニティを形勢するという行為で証明されている。自由を求めるフリーランスなのにコミュニティに集まるのだ。組織から抜けてまた組織に入る。組織に入る理由は技術・知識の共有だけではないはずだろう。

 

自由を得てどのように自分の時間を使っていくのか、あくまでも手段として自由を活用していくということが最も大切なのだ。自由を手段とするのなら、自分のやりたいことが出来るフリーランスにとっての自由の価値は大きい。自由を目的として得たいならサラリーマン、自由を手段として得たいのならフリーランスがいい。

 

刑務所にいる人間は自由を強く望むだろう。贅沢など出来なくてもいいからただ解放されたい、自由になりたいと思うはずだ。より不自由な状況であるほど、より自由を強く求める。では、不労所得を得て完全に不自由から遠ざかった人間は自由を求めるだろうか。不労所得を得て自由に生きる姿がまぶしく見えて価値があると感じるのは、そこに到達していないからだ。到達した時点でその人が持っていた自由そのものの価値は完全に消え失せる。

 

人生の目的が金を稼ぐことや自由を獲得することではもったいない。しかし現実は、自分のやりたいことが見えずらい世の中であるし、自分の人生をかけて成し遂げたいものがなければ価値として分かりやすい金や自由を求めてしまう。だが、想像してみて欲しい。自分が本当にやりたいことがあるのなら、自由かどうかなんてどうでもいいと思えるのだ。その目的が達成できるように必死に突き進むだけだ。自由であるか不自由であるかなど大きな問題ではない。金や自由は手段であるべきだ。人生の目的を達成するために、金と自由を獲得していくべきだ。

 

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