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【リベリア内戦】市民に話を聞いた

これは私が2012年4月にリベリアで内戦について市民に話を聞いた時の記録である。この記事には残酷で不愉快で気味の悪い表現が多く含まれている。そのような記事に抵抗のある方は読まないようにしてほしい。

 

  

モンロビア到着

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「やつらは人々を並ばせて、20人くらい、そして順番に殺していった。銃を持たない人々を、簡単に殺していった。俺も両親も友達も震えていた。俺達は地下に3日間も隠れていた。食べ物も水もなかった。怖かった、本当に。やつらは頭や指や胃、そして心臓までも切り取り解体していった。妊婦の腹を切り開き、その赤ん坊をやつらは食べた。無敵になると信じていたんだ、人を食べれば。俺はローストされた赤ん坊を食べてるところをこの目で見た。「100米)ドルだ」そう言って頭や指や胃をむりやり金を払わせ人々に買わせていたんだ」(町で出会った一般市民からの証言より)

 

私はガーナから飛行機でナイジェリアのラゴスを経由し、リベリアのモンロビア・ロバーツ国際空港に到着していた。それは国際空港と言われなければ分からないほど殺風景なところで、お世辞にも近代的な空港とは言えなかった。入国審査は歯科検診のように簡単に終えられ、税関も空気のように通過することができた。空港から外に出ると、リベリアの国旗が大きく風になびいて揺れていた。

 

リベリアの国旗はアメリカのそれに瓜二つだった。私はこの珍しい国旗を空港で写真に収めたい、という欲求を抑えることができなくなってしまった。このような辺鄙な国は二度と訪れることもないだろうし、あのとき写真に収めておけばよかった、などとあれこれ後悔するのも嫌だった。構うものかと鞄からカメラを取り出した。

 

持っていたカメラは一眼レフだったが、その無駄に大きなそれは、重いという欠点に加え、このアフリカでは非常に目立つという最悪の弱点も併せ持っていた。そのため、私はこのカメラを取り出すたびに自分の想像力の無さを悔やんだ。鞄からカメラを取り出してすぐに空港に掲げてある国旗の写真を撮り、そしてすばやくそれを鞄に戻した。自分ではこれ以上ないほど無駄のない動きであったと思っていたが、どうやら傍から見れば面妖な旅行者として完全に目立っていたようだった。カメラを鞄に戻したその瞬間、大きな声がどこからか飛んできた。私は駆けつけた警官に取り押さえられ、首根っこを掴まれた猫のような気持ちで事務所に連れて行かれた。そして一枚一枚写真を確認されながら写真の消去を強制されたのだった。

 

空港から首都であるモンロビアの中心部まではタクシーで1時間半ほどかかるようだった。空港のそばにあったレストランにいた女が教えてくれた。しばらくコーヒーカップを傾けながらその女と会話をしていた。心を少し落ち着ける必要があった。

 

レストランを出るとまるで待っていたかのように背の高い男が近づいてきた。そしてタクシーはこっちだと頼みもしないのに案内を始めた。そして行き先を聞くことも無く自ら運転手に話をつけると、やはり頼んでもいないのに私の荷物を運び、訛りのひどい英語でまくし立ててきた。仕方なく承諾し、その男に不本意ながらもチップを渡し、そのタクシーに乗り込むことにした。

 

自然のままに乱雑に育った木々と雑草に覆われた地面だけが目の前に広がっていた。そんな代わり映えのしないアフリカの田舎道を、黄色一色に塗られたタクシーは駆け抜けた。車に追い越されることも無ければ、すれ違うこともなく、静かだった。

 

タクシーは町の中心地に近づいていた。すると景色はのどかな風景から少しずつ変わっていった。有刺鉄線が張り巡らされたコンクリート壁に囲まれた建物が、リベリアの国旗を掲げていた。木材が雑に組まれた上に歪んだトタン屋根が乗せてあるだけの空間に、裸の子供がひっくり返っていた。ペンキでジーザスと落書きされた家の前では、男たちが酒を飲んでいた。赤、青、黄色の3色に塗られたパラソルの下で、少年たちが何かを売っていた。様々な看板も目に飛び込んできた。コンクリート壁には怪我人を抱えて歩いている迷彩服の男が描かれていた。「暴力はやめましょう」と書かれた看板には人々が腕を上げ叫んでいる姿が描かれていた。「子供へのレイプはやめましょう」と書かれた看板の中では、おもちゃで遊ぶ少女に男が襲いかかろうとしていた。「女性を傷つけてはいけません。尊重してください」と書かれた看板の中では、男が拳を振り下ろし白いワンピースを着た女性が怯えていた。

 

タクシーは町の中心部に到着した。建物と人の密度が一気に増した。そして次々と視界に飛び込んでくる光景に、嫌でも私の眉はひそめられた。足が無い人間が1人、2人、3人と視界に飛び込んできたのだ。腕の無い人間もいた。そしてその数は偶然見かける頻度を明らかに超えていた。血の気の多そうな若者の数も増えていき、小競り合いを起こしている連中も現れだした。そして「UN(国際連合)」と書かれた車まで出現した。町の印象が一瞬で変貌した。突如、殺伐とした緊張感の漂う町に姿を変えた。

 

 

リベリア内戦の概要

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リベリアでは、1989年12月から2003年8月までの約14年間に、2度の内戦が勃発した。人口の約8%が殺され、約40%が難民化したといわれている。

 

1847年の建国時から、アメリコ・ライベリアンと呼ばれる解放奴隷たちが権力を握っていた。アメリコ・ライベリアンたちは人口の5%にも満たなかったが、建国後しばらくは彼らの統治が続いていた。

 

しかし1980年、この地域に以前から存在する民族の一つである、クラン族出身のサミュエル・ドゥ軍曹がクーデターを起こし政権を手にすると、クラン族のメンバーを中心にして政治は塗りかえられていった。

 

すると今度は1989年、アメリコ・ライベリアンを父に持つ、チャールズ・テーラーが「リベリア国民愛国戦線」を組織し武装蜂起を行うと、これがきっかけとなり第一次内戦が勃発した。 

 

第一次内戦の主な武装集団は7つにもなり、それらが入り乱れて複雑を極めた。リベリア国軍の幹部が権力を掌握し、リベリアの治安が崩壊すると、事態は悪化の一途を辿った。1990年、リベリア国民愛国戦線が首都モンロビアを除く全土を占領したときには、すでに国内に秩序は存在していなかった。

 

1990年8月、これを受けナイジェリア主導の下、「西アフリカ経済共同体」がリベリア内戦に介入することとなった。そして西アフリカ経済共同体は「停戦監視団」を派遣した。同年9月には西アフリカ経済共同体が仲介する形で、国内16民族からなる「国民統一暫定政府」が設置された。しかしチャールズ・テーラー率いるリベリア国民愛国戦線は、この協議への参加を拒否した。

 

中立的な立場で関与すべき西アフリカ経済共同体も、しだいに紛争に巻き込まれていき、リベリア国民愛国戦線との間で紛争に発展していくと、事態はさらに複雑な様相を呈していった。和平協定は何度も結ばれたが、紛争当事者により協定は無視され、武装集団による戦闘は繰り返された。そして武装集団の内部分裂や、政治的駆け引きなどから、和平は一向に進まなかった。

 

戦闘が繰り返されるにつれて、武装集団は次第に淘汰されていった。そして1996年、14回目の和平協定である「アブジャⅡ協定合意」が締結されると、しばらく情勢は安定した。同年7月には「国連リベリア監視ミッション」の支援により国政選挙が実施され、「国民愛国党」党首として、チャールズ・テーラーが大統領に就任した。この時の選挙スローガンは「彼は私の母を殺した、彼は私の父を殺した、しかし私は彼に票を投じる」だった。そのようなスローガンのもと、チャールズ・テーラーは当選した。しかし当選後、チャールズ・テーラーは、元武装集団のリーダーたちを閣僚として抱え込む形での、国家運営を余儀なくされたのだった。

 

そして1997年9月、国連リベリア監視ミッションが完全にリベリアから撤退。1999年には停戦監視団も完全にリベリアから撤退した。そしてそれらの撤退が、新たな火種を生むこととなった。停戦監視団が撤退した年、国内のチャールズ・テーラーに反発する勢力に加え、ギニアからの支援を受けた武装勢力が集まり、反政府組織「リベリア和解・民主連合」が結成されたのだ。さらにこのリベリア和解・民主連合から分離して「リベリア民主連合」が結成されると、国連などの後ろ盾を失った不安定なテーラー政権は、新たな紛争を回避することができなかった。そしてテーラー軍、リベリア和解・民主連合、リベリア民主連合の三者間での争いが始まり、第二次内戦が勃発した。

 

第二次内戦は2003年まで続いた。同年4月、ガーナの首都アクラにおいて、リベリア政府、リベリア和解・民主連合、リベリア民主連合の三者間で、停戦合意が結ばれると、同年8月1日、アメリカが提出した国連安保理決議案をもとに、「国連安保理決議一四九七」が採択され、「西アフリカ諸国経済共同体リベリア・ミッション」などで構成される多国籍軍の設置が承認された。続いて国連平和維持活動の設置も容認。同月14日にはアメリカがリベリア本土に軍事展開を行ったが、これは海軍三隻による約2300人に及ぶもので、モンロビア沖での駐留と、モンロビア市内の一部を警備するものだった。そして同月18日、アクラにて政府側と反政府側とで「リベリア和平合意」が結ばれると、第二次内戦は終結したのだった。

 

 

残虐な行為とドラッグ依存

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当時は国民の多くが食人経験者だった。内戦当時、町中は死体だらけだった。すると誰かがそれを調理してワゴンで売り始めたんだ。みんないかれてた。

 

水死体などでもいまだに性器がとられる。女性器を持ち歩けば力が得られると信じられているんだ。今でもみんな財布に入れて持ち歩く。

 

子供をつれてきて、生きたまま背中を切り開き心臓をとりだし、皆に分配した。心臓を食べれば、銃弾を跳ね返せると信じていたからだ。

 

戦闘前には酒を飲みドラッグをやり、そして無垢な子供の血も飲んだ。子供を殺して血を飲んだ。

 

みんな心臓なんかを食べたが、太ももの肉が柔らかくてたべやすかった。

(出典:“The Cannibal Warlords of Liberia”より)

 

www.youtube.com

 

内戦が終わってからそれほどの月日は経っていない。内戦の記憶は人々の心の中に鮮明に残っているはずだろう。

 

内戦の話を聞かせてもらえないかと思いMTVというモンロビアのテレビ局を訪れた。テレビ局と言われなければ分らないような粗末な外観だった。突然押しかけたにもかかわらず4人の職員が対応してくれた。映像をいくつかみせてくれた。そして彼らは映像を見ながら当時の内戦について色々と教えてくれた。

 

「これはRPG(ロシア製グレネードランチャー)だ」

 

「これはAK47(47年式カラシニコフ自動小銃)だ」

 

「お前は人の心臓見たことあるか?内戦時、人が人の心臓や目を取り出し調理したり生て食べていたんだ。犬も人間の死体を食っていた。96年はレイプが大量に起きた。きちんと統計なんか取れないだろうけど女性の75%がレイプされたとも言われてる。あいつらはドラッグでいかれてたから平気で人の心臓を食べたりできたんだ」

 

残虐な行為が革命への合言葉でもあるかのように実行されていた。どうしたら人間がそのような恐ろしいことをするようになるのだろう。人間が想像できる限りの残虐な行為が、現実に手で触れられるところに存在していたのだ。虫を殺す子供をはるかに超えた、大人の想像力を駆使して行われた残虐な行為。それは背徳な行為などという生易しいものではなく、悪魔の仕業としか思えない神すら目を背けたくなる行為だった。私は想像するだけで、何か饐え切った寒気のようなものに襲われた。しかし次第に内戦の脈打つような話に、引き込まれていった。

 

 

「当時は法律もくそもなかった。犬やカラスが人間の死体を食い散らかしていた。死体はトラックに山盛りにされ森に運ばれて埋められたんだ。30万人以上死んだ。ナイジェリア、ガーナ、シエラレオネからの平和維持軍の軍人の中にはリベリアでレイプされた女性と出来てしまった子供を引き取り国に連れて帰った人間もいたんだ」

(町で出会った一般市民からの証言より)

 

 

モンロビアに滞在していたときは町をよく歩き回っていた。そこは暇そうな若者で溢れていた。どんよりと重くのしかかってくるような空気で居心地の悪さを感じた。

 

モンロビアのスラム街を訪れたことがあった。辺りはゴミだらけで、ゴミの臭いと人糞の臭いで呼吸するのも憚られた。ゴミが溜まってゆくことなど全く意に介さないように、人々はただそこに座り横になっていた。絶望。諦め。死。そんな臭いがした。

 

両足を失っている男が無気力に私を見ていた。その男の視線に気が付いていたが、目を合わせることができなかった。可愛そうという感情だろうか。痛々しさが目を背けさせたのだろうか。もしかすると余りに悲惨なこの男を見ているだけで、自分は安全なところにいるのだという優越感に押しつぶされ、罪悪感のようなものまで生まれていたのかもしれない。この男は内戦という地獄に巻き込まれ、その両足を失い、内戦が終わったところで幸せになるわけでもなく、その五体不満足な体と共に、ゴミに囲まれた汚く臭い劣悪な環境で、希望を持つことも許されないかのように無気力になりながら、きっと死ぬまで時間をただ消費し続けるのだろう。

 

この男の前に姿を現したことさえ、自分がひどく残酷な行為をしているかのように思えた。そしてそんな気持ちを埋め合わせる為の「見物料」としてのお金を、そのとき私は払いそうになった。これ以上ないほど惨めで同情されうる人間を前にしても、私は自分の心配をしていた。この男のために何かしてやれることはないかなどと、一瞬でも意識に上がってくることはなく、自分の身に何かが起こることを、ただ恐れた。困っている人間がいたら助けるべきだ、という私の中にあった小さな道徳心は、極限に追い込まれ素直に吐き出された感情の前では、完全に無力であるようだった。

 

「ヘイミスター」

 

男たちがたむろしていた。ただ何もすることなく、彼らはそこに座り込んでいた。そしてどうやら私に興味を持ったようだった。

 

「お前はどこから来たんだ?」

 

酒かドラッグのためだろうか、目はくすんで見え、焦点もどこか合っていないようで、まるで落ち着きのない連中だった。話をしていたが、それも綺麗に展開することはなかった。しかしそれでもどうにか会話にはなった。そして、内戦時モンロビアに住んでいたのか、という会話の流れの中で出た私の質問に対して、突然一人の男が鋭く反応した。

 

「情報はただじゃないんだよ!」

 

今まで穏やかに話をしていた男が急に青筋を立て、大きな声を出してきた。そしてその男は話をして欲しいなら金をよこせと、激しく唾を飛ばしてきたのだった。当然だった。物の弾みだったとはいえ、してはならない質問をして、踏み込んではならない心の領域に入り込もうとしていたのだ。彼らが記憶を呼び起こすのにはそれなりの犠牲が伴うはずだ。興味本位で立ち入った話をするのは遠慮しなくてはならなかった。酒やドラッグで忘れたい記憶は沢山あるはずだ。ほとんどみんなそんなこと忘れてしまいたいはずだったのだ。 

 

ここモンロビアはリベリアで最大のドラッグ消費地となっている。そしてモンロビアにはゲットーと呼ばれる、ドラッグの売買や使用が頻繁に行われる場所が多く存在する。使用されるドラッグは大麻、アヘン類、コカインなどだ。中でも大麻は多く出回っていて、リベリアの内陸部では大麻の栽培も行われている。

 

多くの人たちは内戦が始まってからドラッグを始めたのだという。内戦が彼らにドラッグを強いたのだ。武装集団のコマンダーは戦闘員にドラッグを与え殺戮マシーンを生み出し、そして一般市民はその恐怖に怯えドラッグを始めた。そのためモンロビアにはドラッグ依存者が多く存在する。自分の体を売り、ドラッグを購入するための金を稼ぐ女性もいるのだという。

 

内戦により腕や足は切断され、親や兄弟は殺され、妻はレイプされ、子供は食われ、家は焼かれ、持ち物は奪われ、精神は血祭りに上げられ、全てを失い、人々の希望は断末魔の叫びを上げた。ドラッグで頭をおかしくするのは「まともな」選択なのかもしれない。ドラッグだけが地獄から彼らをひと時の間解放してくれるのだから。その忌々しい記憶に精神が蝕まれるのを救ってくれるのだから。体と精神が崩壊するまでドラッグをやり続けるという「非常識」が、彼らにとっては最善になる可能性すら否定できないのだ。強い依存性と戦いドラッグをやめた先に待っているのは、絶対に逃げ出すことの出来ない悪魔のような記憶の襲来だ。そのような抹殺しようと襲ってくる殺戮者から逃げうる術がドラッグだけならば、どうして再びそれにすがらずにいられようか。スラムの死んだような人たちを見ながらそんなことを考えていた。

 

 

少年兵とカラシニコフ自動小銃

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「全ての持ち物を持っていかれた。断ったら殺される。名前はなんだと聞かれ名前が気に入らなければ殺される。気分次第で殺される。ポリスもない。法律もない。反乱軍が法律だった。森や家に隠れた。RPG(ロシア製グレネードランチャー)で家は焼かれた。やつらが来たときはすぐに物を渡して殺されないように懇願した。やつらは人々に銃を持たせ殺させあったり、レイプなどをさせたり、残酷な行為をするよう命令してきた。道を封鎖されて物資が入ってこなくなり、沢山の人が飢えて死んだんだ」

(町で出会った一般市民からの証言より)

 

 

「俺は当時15歳でやつらは俺に兵になるように言ってきた。断ることなんかできなかった。断っていたら俺は今ここにいないだろう。3年間もの間ゲリラになることを強制されていた。銃だってもちろん撃った。カラシニコフの扱い方なんか叩き込まれた。3年間もの間外でずっと見張りをしていた。ゆっくり寝る時間なんか本当になかった。いつ敵がくるかもわからない状況でどうやったら寝れるっていうんだ?」

(町で出会った元少年兵からの証言より)

 

 

モンロビアを出た私はトゥブメンバーグという町に来ていた。シエラレオネとの国境に近い小さな町だ。この町には穏やかで優しい人が多く、モンロビアのような殺伐とした雰囲気も無く過ごしやすかった。泊まっていた宿の近くの裁縫屋に、破けたズボンを直しにいったことがあった。歩いていたらミシンで作業をしているのが見えたので、ズボンの修理をお願いしたのだ。それがきっかけになり度々その家にお邪魔し話をさせてもらったりしていた。

 

彼らはサッカーが大好きだった。調度そのころUEFAチャンピオンズリーグが開催していて、一緒に観戦しに行く機会があった。リベリアでは映画館のようなところで、皆サッカー観戦をする。キックオフの少し前に到着したにも関わらず、すでにその施設は町の人たちで埋め尽くされていた。そこには巨大なスクリーンが設けられていて、椅子も並べられていた。このときはチェルシー対バルセロナの試合が行われていた。室内はサウナにでも入っているかのように蒸し暑かった。そしてその理由がわかるのに時間は掛からなかった。

 

人々の半分以上は上半身裸になり、試合開始前から物凄いエネルギーを発散させていた。そして試合が始まると選手のワンプレーごとに狂喜乱舞し、全身で興奮を解放していた。もはや椅子に座っている人間など一人もおらず、放送の音声は彼らの叫び声にかき消されて、何も聞こえなかった。サッカーを見に来たはずが彼らの姿に圧倒されてしまい試合どころではなかった。真っ暗な会場でスクリーンから放たれる光が彼らの汗で濡れた体を輝かせていた。男たちは脱いだTシャツを振り回しそしてその体にこびりついた汗を撒き散らした。リオネル・メッシがペナルティキックを外したときなど、男たちは跳ね上がり、ステージ上を駆け回り、会場を揺さぶるほどの歓声をあげた。後半のロスタイムでフェルナンド・トーレスが得点をあげたときなどは、鼓膜が破けそうになるほど、男たちは歓喜の雄たけびを上げた。この日決まったチェルシーの決勝進出に、彼らは夜中まで騒ぎ続けた。そこには物凄いエネルギーをぶつけるリベリアの人々の姿があった。

 

サッカーの観戦に連れて行ってくれた裁縫屋のサムとその友人であるブライマンという男とあるときいつものように話をしていた。そして内戦の話になったことがあった。彼らは町に反乱軍の兵士がやってきた時の恐怖を語ってくれたのだ。そしてなんとブライマンは元少年兵だった。自ら教えてくれたのだった。足には銃で撃たれた痛々しい跡があった。銃で負傷した時に保護され、病院に連れていかれ解放されたのだとブライマンは言った。

 

内戦時には「チャイルドソルジャーユニット」と呼ばれる少年兵で編成された部隊が存在していた。武装集団のコマンダーは彼らにドラッグを与え、恐怖心を無くさせ、最前線で戦闘員として使用していた。少年兵は大人の兵士よりも要求が少なく、また食糧も少なくて済む。そして素直であり命令に従う。また失うものがないので恐れが少ない。子供たちは捉えられ最高に扱いやすい人殺しの道具として使われていたのだという。

 

モンロビアのテレビ局で映像を見せてもらったときも小学校高学年くらいの男の子が銃を扱っていた。カラシニコフ自動小銃。カラシニコフは子供でも取り扱いが簡単な武器なのだという。この武器の存在も、少年兵の存在を可能にした要員の一つであったといえる。

 

カラシニコフ自動小銃はロシアで発明された。世界に存在するカラシニコフの総数は7000万丁から1億丁といわれ、今なお製造され続けている。カラシニコフはロシア内で製造されるもの、ロシア国外でライセンスを取得し生産されるもの、非合法的に生産されるものがあり、あまりに多くの国で製造され、コピー製品が出回り、構造も改良され、「カラシニコフ」という定義があいまいになるほどだという。

 

1976年から1986年のアパルトヘイト時代、南アフリカは中央・東ヨーロッパの国々(ルーマニア、ブルガリア、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアなど)から大量にカラシニコフを購入したという話がある。そのため、南アフリカから流れて今ではアフリカのいたる地域でカラシニコフを手に入れることができるのだという。鶏一羽の値段で取引される地域も存在するという話だ。

 

構造がシンプルなので、銃を解体するのも組み立てるのも容易だという。解体と組み立てのための説明書がインターネットからダウンロードできるほど。弾は詰まりにくく、砂に埋もれても、水に入っても使用できる。つまり兵士としての経験の少ない人間でも使いこなすことが可能なのだ。カラシニコフは1分間に600発もの銃弾を放つことが可能。発明者のロシア人カラシニコフは発明時のテストで耳がほとんど聞こえないという話もある。それほどすさまじい連射機能を誇るのだ。

 

簡単に取り扱いが可能で高い殺傷能力を誇るカラシニコフ。武装集団のコマンダーたちは子供に麻薬を与え、カラシニコフを持たせれば、簡単に殺戮マシーンを生み出すことができたのだ。誘拐した子供と安いカラシニコフには金もかからない。内戦時には多くの孤児も反乱軍に取り込まれていた。理性のコントロールをまだ知らずに洗脳された子供たちは、無邪気にカラシニコフをぶっ放し、虫を殺すように人間を殺したのだ。内戦が終わった後も暴力を捨てられない元少年兵が多いのだという。

 

元少年兵のブライマンの表情には重くどんよりとした何かがこびりついていて、それは永遠に取り除かれることは無さそうだった。感情など捨ててしまいたいはずだった。ブライマンは多くを語らなかったが、彼の発する少ない言葉から行間を読むのが精一杯だった。

 

「あなたは人を殺しましたか?人をレイプしましたか?人を食べましたか?」

 

そんな質問はできるはずがなかった。まだ彼の中には内戦の記憶が鮮明に残っている。記憶の放棄が可能ならば迷わず実行していることだろう。しかし人間の記憶というものは残酷であり、失いたいと願えばより執拗にどこまでもまとわりついてくるものだ。そんな図々しく愚鈍な記憶は、他の記憶を寄せ付けず突き放し、その人間の中に永遠と居座り続けようとする。少年時代に出会ったばかりにそれは、まるで真っ白な紙にこぼれたインクのように、勢いよく彼の心に染み込み広がり、容易に取り除くことはできないだろう。

 

 

内戦後の現状と人々の思い

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更生はとても大変。私もまだ完全に戻れていない。時に悪夢をみるしフラッシュバックする。戦争に参加などするのではなかった。更生施設の人間は味方だったのもいれば敵だったのもいる。戦闘員は内戦が終わると社会から孤立し路頭に迷った。墓地で寝て路上でドラッグを吸っていた。彼らはとても賢い。しかし戦争が彼らを狂わせた。彼らには暴力は前時代的で最低の対処法だと教えている。私は11歳から多くの人々を殺してきた。罪無き人々を殺してきた。しかしそれは間違っていたと今はわかる。世間は私が人殺しでレイプ犯だとすでに知っている。しかし子供たちは私が真実を司るものだと認識するだろう。私は人殺しだ。私の手は血で汚れている。しかし先祖の過ちは子孫にとって過ちの抑止力になる。神は分け隔てなく私にもご慈悲をくださった。神は言われた。全てのことが協働し良い事に繋がると。一つ確かなことは私は神の目的により導かれた。聖書はいっている、あなたは真実を知るだろう、そして真実はあなたを自由にするだろうと。

(出典:“The Cannibal Warlords of Liberia”より)

 

トゥブメンバーグの町で、外資系ガソリンスタンドの中にある売店でジュースを買って飲んでいたら、ガソリンスタンドの青年と仲良くなった。彼の名はフォダイといい、父親はリベリアでジャーナリストをしているということだった。そして彼もジャーナリズムを学んでいると言った。歳は20代半ばといったところで、背が高く痩せた青年だった。学費を稼ぐためにガソリンスタンドでアルバイトをしているということだった。彼はジャーナリストを目指しているということもあり、内戦について嫌がることなく話をしてくれた。そして次のフォダイの口から出た言葉に、私は驚愕させられた。

 

「戦闘員だった人間のほとんどは罰を与えられなかった。彼らは恩赦をうけ職業訓練をほどこされ社会に戻っていく。こんなこと考えられるかい」

 

考えてもみなかった。内戦が終わり今は平和なのだという考えでしかなく、戦闘員がその後どうしているかなど、それを聞くまで考えてもみなかった。人を殺せば法律により裁かれ、罰が与えられるのは当然であると、ただ単純にそう考えていた。しかしそうではないのだ。裁判は金と時間がかかるので、何万人もの元戦闘員を一人ひとり法で裁くことなど出来ないのだという。罰を与えられることなく日常生活を送っている連中がほとんどなのだ。刑務所で服役して罪を償い更生したわけではなく、「そのまま」日常に復帰している。そんな連中が、人を殺した人間が、人の心臓を食べた人間が、人をレイプした人間が、働いていたり、学校に行っていたり、涼しい顔をして生活しているのが現状なのだ。

 

内戦終結後には、DDRRと呼ばれる平和構築の手続きが実行された。DDRRとは、「Disarmament(武装解除)」、「Demobilization(動員解除)」、「Rehabilitation(社会復帰)」、「Reintegration(再統合)」の頭文字で作られた名称だ。つまり、武器を捨てさせ、武装集団を解体し、社会復帰のサポートを実施し、社会に再統合させる、ということだ。

   

「たしかに元戦闘員は被害者であるとも言えるかもしれない。でもやつらに罪を与えることなくサポートするなんて僕は納得がいかない」

 

フォダイは少し強い口調になり続けてそう言ったのだった。リベリアにはキリスト教徒が多く存在する。そのため教会には沢山の人が祈りに訪れる。そしてそこには被害者もいれば加害者もいる。しかし被害者は被害者のままでしかない。加害者である元戦闘員は裁かれることなく生活を始める。被害者は自分の家族を殺した人間と同じ職場で働く可能性もあるのだ。しかし元戦闘員たちは恩赦を受け法的に守られている。人を殺した人間でも、社会は必要な人材として歓迎するということだ。地獄を演出した役者ともいえる元戦闘員たちが社会に戻ることで、被害者は地獄という悲劇の続きを延々と鑑賞させられることになる。自分たちをどん底に突き落とした張本人たちと、仲良く生活していくことを要求されているのだ。目を背けたくなる、いや殺してやりたいと思う人間もいるだろうが、何事も無かったかのようにニコニコと付き合っていくことを求められている。

 

なにかのきっかけがあれば、殺戮の連鎖は始まる。人は自分の愛する者が殺されれば犯人を殺してやりたいと思うだろう。目の前に刃物があり、銃があり、憎むべき人間がいれば、殺したくなるだろう。ではリベリアの人たちにとってその衝動の抑止力になっているものとは、一体なんなのだろうか。第三者からみれば憎しみは憎しみを生むだけだと涼しい顔で言えることだろう。しかし被害者である人たちにそのような「常識的な」理屈が通用するとは思えない。それとも人間が殺される現場をいくつも目の当たりにしたリベリアの人たちは、自分も殺戮者と同じように振舞うことに嫌悪感を抱くのだろうか。それとも圧倒的な恐怖を植えつけられた人間は、復讐心すら奪われてしまうのだろうか。絶望という名の杭を心に打ち込まれた彼らは、ヒステリーを起こす親に対して萎縮してしまいおとなしい性格の子がつくられてしまうかのように、その悪魔のような鬼胎が彼らの中に存在し続ける限り、ただ怯えて生きていくことしかできないのかもしれない。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場するイワン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフは、『神ちゃまに助けを祈る』と皮肉ったが、そのような現実がここには目に見える形で存在しているのかもしれなかった。

 

何かの縁があり、このリベリアという国に訪れた。そして内戦の悲惨さを次々に知らされた。ただ通過するために訪れたこの地で。しかし私の心はただ通過することを拒んでいるかのようだった。もしかすると、全身の血が凍りつくような話をどこかで欲していたのかもしれない。内戦の惨劇を知り、人間の恐ろしさに身震いする一方で、意識の一つはどこか安堵にも似た感情を持っていたのかもしれない。つまり、人間とは残酷な生き物であるという「解答」を求めていた自分がいたのかもしれなかった。どこかで肯定されたがっていた残虐性の存在を、内戦が証明してくれたのだと。人間は誰でもその獰猛な獣を自分の内に飼っているのだと。飼っていていいのだと。きちんと飼いならし世間の目にさえ触れさせなければ咎められる筋合いはないのだと。そうどこかで考えている自分を肯定してくれたような気がしたのかもしれなかった。しかしリベリアの惨劇の前では私の持つ残虐性などまるで熊と対峙した子犬のようなもので、その「背丈の違い」がさらに私を安堵させたのかもしれなかった。フロイトは人間の良心は社会的不安にありそれ以外のものではないと言ったが、社会という檻が壊された為に獣が放たれ、人間が本来もつ残虐性が曝け出されたのが、リベリアの内戦であったのかもしれない。

 

2003年11月、リベリア内戦を引き起こした元リベリア大統領のチャールズ・テーラーは、シエラレオネ国際戦犯法廷により、殺人や性的暴行、そして少年兵徴集などの罪で起訴された。そして2012年4月26日、シエラレオネ国際戦犯法廷はチャールズ・テーラー被告に対し、有罪判決を言い渡した。

 

リベリア出国前日に手に取ったモンロビアの新聞社「インサイト」の新聞記事には、チャールズ・テーラー被告の無罪を望む人間の声が載せられていた。

 

明日、ハーグで「無罪」という判決が下され、そしてそれを祝うための盛大なパーティーの準備は整っていると、前大統領チャールズ・テーラーの家族、革命支持者、友人は言っている。「明日はリベリアにとって歴史的な日になる。なぜなら我々は前大統領が自由になるという確信があるからだ」。火曜、テーラーの家族のスポークスマンはそう語った。(出典:Insight Newspaper, Liberia, Apr, 25, 2012)

 

そう、偶然にも私がリベリアを出国した日は、チャールズ・テーラー被告の判決が出る日だったのだ。人々の内戦に対するリアルな感情に触れられたのも、このようなタイミングが一致したからに違いなかったのだ。

 

参考資料

参考文献

『アフリカ・ドラッグ考―交錯する生産・取引・乱用・文化・統制』落合雄彦著(晃洋書房、2014年)

『アフリカの曙光―アフリカと共に五〇年』松浦晃一郎著(かまくら春秋社、2009年)

『AK-47世界を変えた銃』ラリー・カハナー著、小林宏明訳(学習研究社、2009年)

『大量破壊兵器、カラシニコフを世界からなくす方法―モノから見える世界の現実』ギデオン・バロウズ著、小野寺愛訳(合同出版、2010年)

『戦争と平和の間―紛争勃発後のアフリカと国際社会』武内進一著(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)

『武装解除―紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治著(講談社、2004年)

 

参考報告書

『アフリカにおける紛争後の課題・第二章リベリアにおける平和構築とDDR』山根達郎著、武内進一編 (日本貿易振興機構アジア経済研究所、2007年) 

“Transitional Justice and DDR: The Case of Liberia” Thomas Jaye (International Center for Transitional Justice, 2009)

 

参考映像資料

“The Cannibal Warlords of Liberia” (VICE News, 2012)

 

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